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2022年7月23日 (土)

厩戸皇子 甲午年(574年)生誕 818

上宮聖徳法王帝説を紐解くと

「上宮聖徳法王 又云 法主王 用命天皇紀同
 甲午年産 敏達天皇三年 壬午年二月廿二日薨逝也」
国立国会図書館 電子図書館 上宮聖徳法王帝説 P20 5行)

甲午年=敏達帝三年 → 574年産
壬午年二月廿二日 → 622年2月22日薨逝
*薨逝(コウセイ)・・・皇族又は三位以上の人が死去する事。薨去。
厩戸皇子は574年生まれだったのです。
只、又困った事が発生するのです。
厩戸皇子の薨去年ですが
日本書紀→621年2/05
上宮聖徳法王帝説→622年2/22 と程1年の違いが生じています。
従って、「厩戸皇子没後1400年」行事も
日本書紀派→法隆寺 奈良県斑鳩町
上宮聖徳法王帝説派→四天王寺 大阪府太子町 大阪府柏原市
大和斑鳩は621年、摂津難波は622年説を仲良く採用?しています。
没年一年違いだから、「まあ良いか」?って事にして前に進みます。
(但し、学者先生方々には更なる研究をお願い致します。)
厩戸皇子 甲午年(574年)生誕を前提とすると
「隋書 倭国伝」の開皇二十年(600年)第一回遣隋使派遣、
この時、彼は27歳になっています。
そして、
「倭王姓阿毎 字多利思比孤 号阿輩鶏弥」から
倭王→阿輩鶏弥=大王→厩戸皇子になるのです。
隋朝の官吏は「倭王=厩戸皇子」と認識していたのです。
はるばる隋に渡った倭遣使は倭王を日本書紀に記述されている
額田部皇女(ぬかたふぇのひめみこ→推古帝)と伝えず
「阿毎多利思比孤 阿輩鶏弥」と告げ・知らせていたのです。
これって特に問題ありません。
日本書紀、推古帝に依ると
「(593年)夏四月庚午朔己卯
 立厩戸豊聡耳皇子為《皇太子》 仍録揶政 以万機悉委焉」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P3 6行)
593年4/10額田部皇女は厩戸皇子に「政(まつりこと)」を全て委ねた。
従って、厩戸皇子は対外的に押しも押されもせぬ「倭王」なのです。
額田部皇女(554~628) 厩戸皇子(574~622)から
この年、お二方の御歳は額田部皇女40歳、厩戸皇子20歳に。
因みに、この時の後援者、蘇我馬子(550 or 551~626)は44 or 43歳。
厩戸皇子→豊聡耳法大王は確固たる「倭王」。 続く。

Asagao

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