隋書 邪馬臺→邪摩堆(ヤマタイ) 811
分かり易くする為、以後、隋書俀(倭)国伝は新字体に変更します。
「倭国 在百済新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 訳通中国 三十余国 皆自称王 夷人不知里数 但計以日
其国境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去楽浪郡境及帯方郡並一万二千里 在会稽之東 与儋耳相近
漢光武時 遣使入朝 自称大夫 安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
桓霊之間 其国大乱 逓相攻伐 歴年無主
有女子名卑弥呼 能以鬼道惑衆 於是国人共立為王
有男弟 佐卑弥理国 其王有侍婢千人 罕有見其面者
唯有男子二人給王飲食 通伝言語 其王有宮室楼観
城柵皆持兵守衞 為法甚厳 自魏至于斉梁 代与中国相通」
中国王朝から観て倭・倭人・倭国の所在地
「後漢書」 | → | 倭は「韓」の東南大海の中 会稽の東で儋耳に近い |
「三国志」 | → | 倭人は「帯方」の東南大海の中 会稽東冶の東 |
「宋書」 | → | 倭国は「高麗」の東南大海の中 |
「隋書」 | → | 倭国は「百済・新羅」の東南 会稽の東で儋耳に近い |
*会稽東冶・・・現在の福建省福州市
*儋耳(ダンジ)・・・現在の海南島
名称 倭→倭人→倭国へ
比定地 韓→帯方→高麗→百済・新羅へ
と時代の流れと共に変容しています。
又、
「三国志(280年)」会稽東冶の東は良しとするも
「隋書(636年)」は未だに会稽の東で儋耳に近いで
これは良しとしません。
隋・初唐時代に於いても、
倭国の存在位置感は上記の地理感覚だった模様ですね。
「隋書」の新情報は「都於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺(台)者也」に。
倭国の都は「邪摩堆」で「魏志」の「邪馬臺(台)」と。
これは「隋書」の編纂者、魏徴(580~643)さんらの誤謬では?
こんな単純ミスをなさるのかしらん?
「魏志(=三国志魏書倭人伝)」の表記は「邪馬壹」で
「後漢書倭伝(438年~)」は「邪馬臺(台)」と記述しています。
子細は下記をご覧下さい。
「邪馬壹国 邪馬臺国 表記違い」
「邪馬壹国 邪馬臺国 表音違い」
ひょっとしたら?魏徴さんらは
成立年が古い「魏志」の表音漢字当て固有名詞「邪馬壹(ヤマヰ)」を
成立年が新しい「後漢書倭伝」の「邪馬臺(ヤマタイ)」を
採用したのやも?
更に「隋書」は「邪馬臺(台)」を「邪摩堆(ヤマタイ」と
漢字表記変更を施しています。
これ以外は前出の史書にほぼ則っています。 続く。

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