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2022年6月11日 (土)

600年阿毎多利思比孤 遣隋使派遣 812

「開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思比孤 号阿輩鶏弥 遣使詣闕
 上(文帝=楊堅)令所司訪其風俗
 使者言
 倭王以天為兄 以日為弟 天未明時出聴政
 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
 高祖曰
 此太無義理 於是訓令改之
 王妻号鶏弥 後宮有女六七百人
 名太子為利歌弥多弗利 無城郭
 内官有十二等 一曰大徳 次小徳 次大仁 次小仁 次大義
 次小義 次大礼 次小礼 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定数」

開皇二十年(600年)に
倭王の遣使が「闕(ケツ)=宮城の門⇒長安」に詣った。
この倭王は 「姓→阿毎 字→多利思比孤 号→阿輩鶏弥」 と。
これは隋官吏が倭王遣使から聞き及んだ「音」をそのまま「漢音」に
置き換えた表記になります。
阿毎(アマ→アメ) 多利思比孤(タリシピコ→タリシヒィコ→ヒコ)
阿輩鶏弥(アファィケビィ→アフォキミ→ヲホキミ)
こんな感じに聞こえたのかしら
翻って、一体、このお方は誰なのかしら
取り急ぎ、今、ここでは詮索は致しません。後程触れます。
隋の文帝=楊堅(541~604 在位581~604)は官吏に
倭国の政(まつりごと)を尋ねさせたところ、
遣使は
「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。
 天未だ明けざる時、出でて政を聴き、「跏趺(カフ)」をして座り、
 日が出ると仕事を止め、我が弟に委ねる」と返答。
*跏趺
両足の足の裏を見せるようにして組んですわる仏家の坐法。
(日本国語大辞典 小学館)
官吏から聞き及んだ楊堅は
「これは自然の理に叶ず。」と、
官吏を通して倭王遣使に改めるよう申しつけたとか。

倭王には妻がいて「鶏弥(ケビィ→キミ)」と。
又、後宮には600~700名の女性がいらしたと。
(卑弥呼女王の侍女は1000名だったから6~7掛けに
 実際はその十分の一として60~70人では?)
「太子」を名付けて「利《和》歌弥多弗利(リ《ワ》カビィタフリ)」と。
この太子も上記と同様、こんな感じに聞き取った事に。
いずれにせよ、どのお方もどちら様かは全くの不明。

更に付け加える感じで「城郭」も無いんだよってさ。
次に、倭国で603年に制定された「冠位十二階」っぽいものが出現。
徳・仁・義・礼・智・信の順で各々大小あり。
一方、「冠位十二階」は
徳・仁・礼・信・義・智の順列で定員数はなし。
因みに、五行説の五常(儒教も)は
仁・義・礼・智・信の順番で最初を徳とすると隋書と同じに。 
「隋書」編纂時(636年)、
倭国の「冠位十二階」制定事実を確認して執筆か? 続く。

牡丹

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