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2022年6月25日 (土)

倭国の刑罰・捜査・風俗・文化等々 814

「其俗殺人強盗及姦皆死 盗者計贓酬物 無財者没身為奴
 自余軽重 或流或杖 毎訊究獄訟 不承引者 以木圧膝 或張強弓
 以弦鋸其項 或置小石於沸湯中 令所競者探之 云理曲者即手爛
 或置蛇甕中 令取之 云曲者即螫手矣 人頗恬静 罕争訟 少盗賊
 楽有五弦琴笛 男女多黥臂點面文身 没水捕魚
 無文字 唯刻木結縄 敬仏法 於百済求得仏経 始有文字
 知卜筮 尤信巫覡 毎至正月一日 必射戯飲酒 其余節略与華同
 好棊博(囲碁) 握槊(双六) 樗蒲(賭博)之戲
 気候温暖 草木冬青 土地膏腴 水多陸少
 以小環挂鸕鷀項 令入水捕魚 日得百余頭
 俗無盤俎 藉以檞葉 食用手餔之
 性質直 有雅風 女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悦者即為婚
 婦入夫家 必先跨犬 乃与夫相見 婦人不淫妬
 死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服
 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之
 或以小輿 有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭
 有如意宝珠 其色青 大如鶏卵 夜則有光 云魚眼精也
 新羅百済皆 以倭為大国 多珍物 並敬仰之 恒通使往来」

刑罰・捜査制度
死刑 → 殺人・強盗・姦淫
科料 → 盗品価値賠償 無産者は奴妃
量刑 → 軽重により流刑・杖打ち等
捜査 → 訴訟の内容尋問・究明
容疑者黙秘 → 拷問各種(キモイので記述不可)
但し、「人頗恬静 罕争訟 少盗賊」から
(倭人は心安らかで争い事は殆ど無し、盗人も少なかった模様)

風俗・文化
楽器は五弦・琴・笛を奏で、
男女共にタトゥー(Tattoo)を施し、水に潜ってお魚さんをゲット。
文字は無く、木を刻んだり縄を結って表現?仏教を敬い、百済より
仏経典を得て、始めて文字の存在を知ったと。
亀甲・骨・筮竹占いを行い、「巫覡」(巫女)のお告げを最も信頼。
正月を迎えると必ず「射戯(弓始め?)」をし、お酒を口にする。
その他季節行事は概ね我が国と同じ。
又、倭人は「棊博(囲碁) 握槊(双六) 樗蒲(賭博)」を好む。

地理・気候等
気候は温暖(唐時代のどの場所と比較?)、
冬でも樹木・草木の葉は緑色(常緑樹等々)。
土地は肥沃、水に恵まれ、耕せない丘は少な目。
鵜飼でお魚を一日で「百余頭(=匹)」も捕ると。
(かの唐時代、お魚さんは「動物」扱いだったみたい。
 長良川鵜飼は5/11に開幕)

食卓・食事・気質・婚姻・葬儀等
お皿は「檞(=柏)葉」で代用、お箸も用いない。
気質は「性質直 有雅風(謹厳実直で風雅)」。
男性よりも女性が多く、婚姻は「同姓」とは行われず(同姓不婚)、
男女はお気に入り同士の結婚する。
只、女性が婚家に入る際、必ず、先に「跨犬(犬を跨ぐ)」してから、
夫にまみえるの箇所は全く意味不明。
又、倭の女性は淫乱で無く、嫉妬はしないと。
(これって、唐の女性は淫乱・嫉妬深いって事?)
葬儀は「棺槨」に遺体を納め、遺族・親戚・縁者は「歌舞」。
(どの程度、舞い歌ったのでしょうか?)
妻子兄弟は白い喪服。
貴人は三年間、外で殯、庶民は良き日を選んで埋葬。
遺体を舟上に安置し陸地で引き、或いは、小轝(輿)に乗せるが不明。

突如、倭国風俗から「阿蘇山」(固有名詞)が登場。
噴火状況(いきなり噴石が舞い、噴煙が天にも届く)が記述されてる
ので、直近に阿蘇山大噴火があったのかしら
気象庁「阿蘇山 有史以降の火山活動」に依りますと
「553年(欽明帝14年)に噴火?」とありますが・・・・・。
但し、この件、日本書紀は何も触れていません。
又、「如意宝珠」は隋書の能書きでは想像不可。

周辺国関係
新羅・百済は倭を大国と認識、珍物多しとし、敬い、恒に交通したとか。
 続く。

Asagao

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2022年6月18日 (土)

多利思比孤の倭国情報 813

「有軍尼一百二十人 猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼 如今里長也
 十伊尼翼属一軍尼
 其服飾 男子衣裙襦 其袖微小 履如履形
 漆其上 繫之於脚 人庶多跣足 不得用金銀為飾 故時衣橫幅
 結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髪於両耳上 至隋 其王始制冠
 以錦綵為之 以金銀鏤花為飾
 婦人束髪於後 亦衣裙襦 裳皆有襈
 攕竹為梳
 編草為薦 雑皮為表 縁以文皮
 有弓矢刀矟弩䂎斧
 漆皮為甲 骨為矢鏑 雖有兵 無征戦
 其王朝会 必陳設儀仗 奏其国楽 戸可十万」
☆軍尼(クニ)⇒国造 ☆伊尼翼(→冀)(イナキ)⇒稲置?。
*国造
大化前代の地方官。在地の豪族のうち有力者を任命。
「くに」の首長。「くに」の政(まつりごと)を行なう。
遅くとも七世紀前半までには、全国的に設置されたと推定される。
*稲置
大化前代の地方官の一つ。職掌については、県や屯倉の経営を
担当したとする説と、国の下級組織の長官とする説がある。
(日本国語大辞典 小学館)

倭国は120国造を有し、その国政区割り
80戸→1稲置 10稲置→1国造とか。都以外に9,600戸があった?
ちょいと少な過ぎないのでは?
ちゃんと倭のお役人さんからお聞き逃しは無かった?

服飾等
男性→裙と襦(袖は微小と云われても?)
婦人→裙と襦・裳(襞飾りあり)
何れにせよ、「デザイン画」が無いので衣装は全く不明。
まあ当然かしら
注目は「至隋 其王始制冠」でそれ迄倭人は冠(かがふり・こうぶり)を
被る文化がなく、中国の隋朝になって「冠位制度」を初めて、
「倭王 姓は阿毎 字は多利思比孤」が導入したと。
女性の髪型は「束髪」(髪を後ろで束ねる、下げ髪)。
竹製の櫛で調髪。
褥(しとね 敷き布団)は
草を編んで「薦(こも)=筵(むしろ)」を雑皮で包み縁取り仕上げに。
(この草、イ草なら畳になりますが?)

武具等
弓・矢・刀・矟(ほこ)・弩・䂎(両刃ほこ)・斧。
甲(かぶと=兜)は漆を塗った皮、矢先は骨製の鏑矢。
兵(武器)を有するも侵略戦争はせず。(現在の自衛隊みたい)
倭王の多利思比孤は「朝会(臣下が朝廷に参会する儀式)」では必ず
「儀仗(儀礼用の武具・武器)」を陳列、「(音)楽」を奏でるとか。
又、この都の戸数は10万。因みに卑弥呼の邪馬壹国は7万でした。
 続く。

牡丹

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2022年6月11日 (土)

600年阿毎多利思比孤 遣隋使派遣 812

「開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思比孤 号阿輩鶏弥 遣使詣闕
 上(文帝=楊堅)令所司訪其風俗
 使者言
 倭王以天為兄 以日為弟 天未明時出聴政
 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
 高祖曰
 此太無義理 於是訓令改之
 王妻号鶏弥 後宮有女六七百人
 名太子為利歌弥多弗利 無城郭
 内官有十二等 一曰大徳 次小徳 次大仁 次小仁 次大義
 次小義 次大礼 次小礼 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定数」

開皇二十年(600年)に
倭王の遣使が「闕(ケツ)=宮城の門⇒長安」に詣った。
この倭王は 「姓→阿毎 字→多利思比孤 号→阿輩鶏弥」 と。
これは隋官吏が倭王遣使から聞き及んだ「音」をそのまま「漢音」に
置き換えた表記になります。
阿毎(アマ→アメ) 多利思比孤(タリシピコ→タリシヒィコ→ヒコ)
阿輩鶏弥(アファィケビィ→アフォキミ→ヲホキミ)
こんな感じに聞こえたのかしら
翻って、一体、このお方は誰なのかしら
取り急ぎ、今、ここでは詮索は致しません。後程触れます。
隋の文帝=楊堅(541~604 在位581~604)は官吏に
倭国の政(まつりごと)を尋ねさせたところ、
遣使は
「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。
 天未だ明けざる時、出でて政を聴き、「跏趺(カフ)」をして座り、
 日が出ると仕事を止め、我が弟に委ねる」と返答。
*跏趺
両足の足の裏を見せるようにして組んですわる仏家の坐法。
(日本国語大辞典 小学館)
官吏から聞き及んだ楊堅は
「これは自然の理に叶ず。」と、
官吏を通して倭王遣使に改めるよう申しつけたとか。

倭王には妻がいて「鶏弥(ケビィ→キミ)」と。
又、後宮には600~700名の女性がいらしたと。
(卑弥呼女王の侍女は1000名だったから6~7掛けに
 実際はその十分の一として60~70人では?)
「太子」を名付けて「利《和》歌弥多弗利(リ《ワ》カビィタフリ)」と。
この太子も上記と同様、こんな感じに聞き取った事に。
いずれにせよ、どのお方もどちら様かは全くの不明。

更に付け加える感じで「城郭」も無いんだよってさ。
次に、倭国で603年に制定された「冠位十二階」っぽいものが出現。
徳・仁・義・礼・智・信の順で各々大小あり。
一方、「冠位十二階」は
徳・仁・礼・信・義・智の順列で定員数はなし。
因みに、五行説の五常(儒教も)は
仁・義・礼・智・信の順番で最初を徳とすると隋書と同じに。 
「隋書」編纂時(636年)、
倭国の「冠位十二階」制定事実を確認して執筆か? 続く。

牡丹

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2022年6月 4日 (土)

隋書 邪馬臺→邪摩堆(ヤマタイ) 811 

分かり易くする為、以後、隋書俀(倭)国伝は新字体に変更します。

「倭国 在百済新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
 魏時 訳通中国 三十余国 皆自称王 夷人不知里数 但計以日
 其国境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
 都於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也
 古云去楽浪郡境及帯方郡並一万二千里 在会稽之東 与儋耳相近
 漢光武時 遣使入朝 自称大夫 安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
 桓霊之間 其国大乱 逓相攻伐 歴年無主
 有女子名卑弥呼 能以鬼道惑衆 於是国人共立為王
 有男弟 佐卑弥理国 其王有侍婢千人 罕有見其面者
 唯有男子二人給王飲食 通伝言語 其王有宮室楼観
 城柵皆持兵守衞 為法甚厳 自魏至于斉梁 代与中国相通」

中国王朝から観て倭・倭人・倭国の所在地

「後漢書」  倭は「韓」の東南大海の中 会稽の東で儋耳に近い
「三国志」  倭人は「帯方」の東南大海の中 会稽東冶の東
「宋書」  倭国は「高麗」の東南大海の中
「隋書」  倭国は「百済・新羅」の東南 会稽の東で儋耳に近い

*会稽東冶・・・現在の福建省福州市
*儋耳(ダンジ)・・・現在の海南島

名称 倭→倭人→倭国へ
比定地 韓→帯方→高麗→百済・新羅へ
と時代の流れと共に変容しています。
又、
「三国志(280年)」会稽東冶の東は良しとするも
「隋書(636年)」は未だに会稽の東で儋耳に近いで
これは良しとしません。
隋・初唐時代に於いても、
倭国の存在位置感は上記の地理感覚だった模様ですね。
「隋書」の新情報は「都於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺(台)者也」に。
倭国の都は「邪摩堆」で「魏志」の「邪馬臺(台)」と。
これは「隋書」の編纂者、魏徴(580~643)さんらの誤謬では?
こんな単純ミスをなさるのかしら
魏志(=三国志魏書倭人伝)」の表記は「邪馬壹」で
後漢書倭伝(438年~)」は「邪馬臺(台)」と記述しています。
子細は下記をご覧下さい。
「邪馬壹国 邪馬臺国 表記違い」
「邪馬壹国 邪馬臺国 表音違い」
ひょっとしたら?魏徴さんらは
成立年が古い「魏志」の表音漢字当て固有名詞「邪馬壹(ヤマヰ)」を
成立年が新しい「後漢書倭伝」の「邪馬臺(ヤマタイ)」を
採用したのやも?
更に「隋書」は「邪馬臺(台)」を「邪摩堆(ヤマタイ」と
漢字表記変更を施しています。
これ以外は前出の史書にほぼ則っています。 続く。

牡丹

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