継体帝崩御 527・531・534年? 808
「日本書紀 継体帝」最後の記述です。
「廿五年春二月 天皇病甚 丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二
冬十二月丙申朔庚子 葬于藍野陵
或本云 天皇 廿八年歲次甲寅崩
而此云廿五年歲次辛亥崩者 取百濟本記爲文
其文云 太歲辛亥三月 帥進至于安羅 營乞乇城
是月 高麗弑其王安 又聞
日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歲 當廿五年矣
後勘校者 知之也」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 継体帝 P27)
531年(廿五年=辛亥)02/07 継体帝、磐余玉穂宮で崩御、御年82歳。
ある本では534年(廿八年=甲寅)に崩御と。
ここで531年としたのは「百済本記」に依り記した。その内容は
「531年3月軍団は『安羅』に至り、『乞屯城』を営した。
この月『高麗』は王の『安』を殺めた。又、聴く所に依ると
この531年の歳に『日本天皇及太子皇子』が倶に亡くなった」と。
*百済本記・・・百済歴史書も散逸 成立年代不明 日本書紀に逸文
尚、上記を含め継体帝に4カ所 欽明帝に13カ所に。
*安羅・・・任那加羅に属した国 *高麗=高句麗
「後勘校者 知之也(後に考える者が知るであろう)」
*勘校・・・照らし合わせて誤りを正す事。又、書物を校訂する事
(日本国語大辞典 小学館)
日本書紀の執筆時、
編纂者は継体帝の崩御年を特定不可だったのです。
とは云うものの、百済本記531年を本編に採用し、
534年崩御を伝えてる「ある本」を取れ上げていない事実のです。
百済本記に記述されていたと思われる「聞」(誰ぞに聞いた話)を優先
そんなに「ある本」より「百済本記」に信憑性を感じたのかしらん?
それとも、百済本記採択は「フェイクニュース?」と知りつつ
「外国文献」に花を持たせ、配慮する、生真面目なお取り扱い?
(やはり、ここにも日本文化の匂いが・・・・・。)
それはさて置き、又、更に困ってしま事が。
以前紹介した「古事記 継体帝」で「丁未年四月九日崩」から崩御年は
527年(丁未年)になっているのです。
継体帝の崩御された年は「527・531・534年」と不明の為
後に研究されるお方に結論を委ねますって。「何か、胸キュンです。」
続く。

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