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2022年5月21日 (土)

宣化帝の崩御月日が二つ 809

先週日本書紀の編纂者が継体帝の崩御年を特定不可と。
その継体帝のお子さんが後に3人「帝位」についています。
母 元妃 尾張連草香女曰目子媛から
 安閑帝と宣化帝
母 皇后 手白香皇女から
 欽明帝
これらのお三方、日本書紀記載の抜粋が下記になります。

531年(継体25年)02/07 継体帝譲位 安閑帝即位 この日に継体帝崩御
534年(安閑01年)⇔「太歳甲寅」から
535年(安閑02年)12/17勾金橋宮で崩御 御年70歳 宣化帝即位
536年(宣化01年)⇔「太歳丙辰」から 02/01蘇我稲目宿禰を大臣に
539年(宣化04年)02/10桧隈廬入野宮で(宣化帝)崩御 御年73歳
539年(宣化04年)10月(宣化帝)崩御
539年(宣化04年)12/05欽明帝即位
540年(欽明01年)⇔「太歳庚申」から

国立国会図書館 電子図書館 日本書紀
安閑帝 P28 7行 P32 15行 P34 1行
宣化帝 P34 14行(蘇我稲目)P36 4行(太歳丙辰)P36 9行(宣化帝崩御)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀
欽明帝 P3 5行(宣化帝崩御)P3 12行(即位)P5 6行(太歳庚申)

安閑帝について
531年(継体25年)02/07は「百済本記」を採用、
534年(安閑01年)は「或本(倭伝聞)」に依っています。
次の宣化帝について
539年(宣化04年)02/10宣化帝崩御〈巻十八 安閑・宣化帝〉
539年(宣化04年)10月宣化帝崩御〈巻十九 欽明帝〉
何と、宣化帝の崩御月日が02/10と10月と憚(はばか)りなく
二つ書き留められているのです。
巻十八・巻十九は以前お話しした「続守言」が記述しています。
彼もきっと以て戸惑いながら記したと思われます。
但し、編纂者のご指示ですので・・・・・?
因みに、日本書紀(在位最後年崩御)・古事記崩御年は

代 帝名    在位期間         在位年 古事記崩御年
26 継体帝 507年02月~531年02月 25年 527年
27 安閑帝 531年02月~535年12月 04年 535年
28 宣化帝 535年12月~539年02月 04年
29 欽明帝 539年12月~571年04月 32年
30 敏達帝 572年04月~585年08月 14年 584年
31 用明帝 585年09月~587年04月 02年 587年
32 崇峻帝 587年08月~592年11月 05年 592年
33 推古帝 592年12月~628年03月 36年 628年
(天皇系図(宮内庁)日本書紀)

上記から安閑帝は一致、敏達帝は一年違い、用明・崇峻・推古帝は
全く一致しているところから587年以降からは問題なしになる筈・・・・・。
ところが、長らく途絶えていた「倭」情報がもたらされるのです。
漸く、「隋」と「倭国」が接触、接点を持つのです。
この接点が「隋書」と「日本書紀」の記述に登場するのです。
来週からは一気に「推古帝」の御代に突入します。 続く。

Ayame

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