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2022年5月28日 (土)

隋書 俀(倭)国伝 810

「推古帝」の御代を描いた「隋書」と「日本書紀」。
先ずは隋(581~618)王朝の正統性を記した「隋書」から。
「隋書」の帝紀五巻・列伝は初唐636年に成立しています。
ここに倭国600年~からの遣隋使について記載してくれてますので
潤色以外はとても直近の情報が確認できます。
以下は「隋書 巻八十一 列伝第四十六 東夷 俀(倭)國」です。
国立国会図書館 電子図書館 隋書 列伝第四十六 4行~)
下記は新字体に変更せず記載通りの原文になります。

「俀國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
 魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數 但計以日
 其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近
 漢光武時 遣使入朝 自稱大夫 安帝時 又遣使朝貢 謂之俀奴國
 桓靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歷年無主
 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑眾 於是國人共立為王
 有男弟 佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面者
 唯有男子二人給王飲食 通傳言語 其王有宮室樓觀
 城柵皆持兵守衞 為法甚嚴 自魏至于齊梁 代與中國相通

 開皇二十年(600年)
 俀王姓阿每 字多利思比孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕
 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天為兄 以日為弟
 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之 王妻號雞彌
 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭
 內官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義
 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 
 有軍尼一百二十人 猶中國牧宰 八十戶置一伊尼翼 如今里長也
 十伊尼翼屬一軍尼 其服飾 男子衣裙襦 其袖微小 履如屨形
 漆其上 繫之於脚 人庶多跣足 不得用金銀為飾 故時衣橫幅
 結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髮於兩耳上 至隋 其王始制冠
 以錦綵為之 以金銀鏤花為飾 婦人束髮於後 亦衣裙襦 裳皆有襈
 攕竹為梳 編草為薦 雜皮為表 緣以文皮 有弓矢刀矟弩䂎斧
 漆皮為甲 骨為矢鏑 雖有兵 無征戰
 其王朝會 必陳設儀仗 奏其國樂 戶可十萬

 其俗殺人強盜及姦皆死 盜者計贓酬物 無財者沒身為奴
 自餘輕重 或流或杖 每訊究獄訟 不承引者 以木壓膝 或張強弓
 以弦鋸其項 或置小石於沸湯中 令所競者探之 云理曲者即手爛
 或置蛇甕中 令取之 云曲者即螫手矣 人頗恬靜 罕爭訟 少盜賊
 樂有五弦琴笛 男女多黥臂點面文身 沒水捕魚
 無文字 唯刻木結繩 敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字
 知卜筮 尤信巫覡 每至正月一日 必射戲飲酒 其餘節略與華同
 好棊博 握槊 樗蒲之戲 氣候溫暖 草木冬青 土地膏腴 水多陸少
 以小環挂鸕鷀項 令入水捕魚 日得百餘頭
 俗無盤俎 藉以檞葉 食用手餔之
 性質直 有雅風 女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悅者即為婚
 婦入夫家 必先跨犬 乃與夫相見 婦人不淫妬
 死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服
 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之
 或以小輿 有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭
 有如意寶珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也
 新羅百濟皆以俀為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來

 大業三年(607年) 其王多利思比孤遣使朝貢
 使者曰
 聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法
 其國書曰
 日出處天子致書日沒處天子無恙 云云
 帝覽之不悅
 謂鴻臚卿曰
 蠻夷書有無禮者 勿復以聞
 明年 上遣文林郎裴清(裴世清)使於俀國
 度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏
 以為夷洲 疑不能明也 又經十餘國 達於海岸
 自竹斯國以東 皆附庸於俀
 俀王遣小德阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
 後十日 又遣大禮哥多毗 從二百餘騎郊勞
 既至彼都 其王與清相見 大悅
 曰
 我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢
 我夷人 僻在海隅 不聞禮義 是以稽留境內 不即相見
 今故清道飾館 以待大使 冀聞大國惟新之化
 清答曰
 皇帝德並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭
 既而引清就館
 其後清遣人謂其王曰
 朝命既達 請即戒塗
 於是設宴享以遣清 復令使者隨清來貢方物 此後遂絕」

 読み解きは来週に。 続く。

牡丹

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2022年5月21日 (土)

宣化帝の崩御月日が二つ 809

先週日本書紀の編纂者が継体帝の崩御年を特定不可と。
その継体帝のお子さんが後に3人「帝位」についています。
母 元妃 尾張連草香女曰目子媛から
 安閑帝と宣化帝
母 皇后 手白香皇女から
 欽明帝
これらのお三方、日本書紀記載の抜粋が下記になります。

531年(継体25年)02/07 継体帝譲位 安閑帝即位 この日に継体帝崩御
534年(安閑01年)⇔「太歳甲寅」から
535年(安閑02年)12/17勾金橋宮で崩御 御年70歳 宣化帝即位
536年(宣化01年)⇔「太歳丙辰」から 02/01蘇我稲目宿禰を大臣に
539年(宣化04年)02/10桧隈廬入野宮で(宣化帝)崩御 御年73歳
539年(宣化04年)10月(宣化帝)崩御
539年(宣化04年)12/05欽明帝即位
540年(欽明01年)⇔「太歳庚申」から

国立国会図書館 電子図書館 日本書紀
安閑帝 P28 7行 P32 15行 P34 1行
宣化帝 P34 14行(蘇我稲目)P36 4行(太歳丙辰)P36 9行(宣化帝崩御)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀
欽明帝 P3 5行(宣化帝崩御)P3 12行(即位)P5 6行(太歳庚申)

安閑帝について
531年(継体25年)02/07は「百済本記」を採用、
534年(安閑01年)は「或本(倭伝聞)」に依っています。
次の宣化帝について
539年(宣化04年)02/10宣化帝崩御〈巻十八 安閑・宣化帝〉
539年(宣化04年)10月宣化帝崩御〈巻十九 欽明帝〉
何と、宣化帝の崩御月日が02/10と10月と憚(はばか)りなく
二つ書き留められているのです。
巻十八・巻十九は以前お話しした「続守言」が記述しています。
彼もきっと以て戸惑いながら記したと思われます。
但し、編纂者のご指示ですので・・・・・?
因みに、日本書紀(在位最後年崩御)・古事記崩御年は

代 帝名    在位期間         在位年 古事記崩御年
26 継体帝 507年02月~531年02月 25年 527年
27 安閑帝 531年02月~535年12月 04年 535年
28 宣化帝 535年12月~539年02月 04年
29 欽明帝 539年12月~571年04月 32年
30 敏達帝 572年04月~585年08月 14年 584年
31 用明帝 585年09月~587年04月 02年 587年
32 崇峻帝 587年08月~592年11月 05年 592年
33 推古帝 592年12月~628年03月 36年 628年
(天皇系図(宮内庁)日本書紀)

上記から安閑帝は一致、敏達帝は一年違い、用明・崇峻・推古帝は
全く一致しているところから587年以降からは問題なしになる筈・・・・・。
ところが、長らく途絶えていた「倭」情報がもたらされるのです。
漸く、「隋」と「倭国」が接触、接点を持つのです。
この接点が「隋書」と「日本書紀」の記述に登場するのです。
来週からは一気に「推古帝」の御代に突入します。 続く。

Ayame

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2022年5月14日 (土)

継体帝崩御 527・531・534年? 808

「日本書紀 継体帝」最後の記述です。

「廿五年春二月 天皇病甚 丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二
 冬十二月丙申朔庚子 葬于藍野陵
 或本云 天皇 廿八年歲次甲寅崩
 而此云廿五年歲次辛亥崩者 取百濟本記爲文
 其文云 太歲辛亥三月 帥進至于安羅 營乞乇城
 是月 高麗弑其王安 又聞
 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歲 當廿五年矣
 後勘校者 知之也」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 継体帝 P27)

531年(廿五年=辛亥)02/07 継体帝、磐余玉穂宮で崩御、御年82歳。
ある本では534年(廿八年=甲寅)に崩御と。
ここで531年としたのは「百済本記」に依り記した。その内容は
「531年3月軍団は『安羅』に至り、『乞屯城』を営した。
 この月『高麗』は王の『安』を殺めた。又、聴く所に依ると
 この531年の歳に『日本天皇及太子皇子』が倶に亡くなった」と。
*百済本記・・・百済歴史書も散逸 成立年代不明 日本書紀に逸文
 尚、上記を含め継体帝に4カ所 欽明帝に13カ所に。
*安羅・・・任那加羅に属した国 *高麗=高句麗
「後勘校者 知之也(後に考える者が知るであろう)」
*勘校・・・照らし合わせて誤りを正す事。又、書物を校訂する事
(日本国語大辞典 小学館)

日本書紀の執筆時、
編纂者は継体帝の崩御年を特定不可だったのです。
とは云うものの、百済本記531年を本編に採用し、
534年崩御を伝えてる「ある本」を取れ上げていない事実のです。
百済本記に記述されていたと思われる「聞」(誰ぞに聞いた話)を優先
そんなに「ある本」より「百済本記」に信憑性を感じたのかしら
それとも、百済本記採択は「フェイクニュース?」と知りつつ
「外国文献」に花を持たせ、配慮する、生真面目なお取り扱い?
(やはり、ここにも日本文化の匂いが・・・・・。)
それはさて置き、又、更に困ってしま事が。
以前紹介した「古事記 継体帝」で「丁未年四月九日崩」から崩御年は
527年(丁未年)になっているのです。
継体帝の崩御された年は「527・531・534年」と不明の為
後に研究されるお方に結論を委ねますって。「何か、胸キュンです。」
 続く。

Ayame

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2022年5月 7日 (土)

日本書紀 継体帝 時系列 807

以下、日本書紀に記載されている年月日順です。

507年01/24 男大迹王が樟葉宮(くすはのみや)に
*樟葉宮・・・現在の大阪府枚方市《河内》
507年02/04 男大迹王が大伴金村大連らに推され即位、継体帝誕生
507年03/05 手白香皇女を正妻(「皇后」)に
*手白香皇女
 父は仁賢帝 母は春日大娘皇女(雄略帝のお嬢さん)
 継体帝 即位の際に「皇女」と夫婦に。初めて入り婿的即位
507年03/14 八人もの「妃」を後宮に
(日付も記入されているのです。)
509年02月 百済へ遣使
511年10月 山背筒城へ遷都《山背=山城》
*筒城宮・・・現在の京都府京田辺市
512年04/06 百済へ遣使
512年12月 百済使者が来倭
513年06月 百済の五経博士 段楊爾が来倭
*五経博士
 五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の文義に精通している学者。
513年08/26 在倭の百済太子の淳陀(武寧王の息子)が死去
516年09月 百済の五経博士 段楊爾から漢高安茂に交代
519年03/09 弟國へ遷都《山背=山城》
*弟國宮・・・現在の京都府長岡京市
523年05月 百済王の武寧が死去
524年01月 百済太子の明(聖明王)が即位
526年09/13 磐余玉穂(いはれのたまほ)へ遷都《大和》
*磐余玉穂宮・・・現在の奈良県桜井市 (ある書では513年と)
527年08/01 物部麁鹿火大連に筑紫磐井の追討命令
528年11/11 大将軍物部麁鹿火が賊師磐井と筑紫御井郡で交戦勝利
*御井郡(=三井郡)・・・現在の福岡県久留米市
528年12月 磐井の息子筑紫君葛子が糟屋屯倉を献上、連座死罪回避
*糟屋・・・現在の福岡県糟屋郡
(以後、韓半島の各国、百済・加羅・任那・新羅の件は端折ります。)
531年02/07 継体帝、磐余玉穂宮で崩御、御年82歳
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 継体帝 P8~P27)

因みに、「507年01/12 男大迹王が樟葉宮に」の年月日について。
日本書紀表記にて
「(武烈帝)八年(=506年)冬十二月己亥 小泊瀬天皇崩 中略
 元年春正月辛酉朔甲子 大伴金村大連 更籌議曰 中略
 甲申 天皇行至樟葉宮 中略 是年也 太歲丁亥」
元年 是年也 太歲(=干支・太歳紀年)丁亥→507年
春正月辛酉朔 甲子は1月1日(朔日)が「辛酉」、
辛酉(1)→壬戌(2)→癸亥(3)→甲子(4)で一月四日に。
順繰りで 一 甲申(24)で一月二四日に。
(尚、六十干支の順番は「国立天文台 六十干支」で)

但し、今迄の年月日は全く当てにならない事態に・・・・・。 続く。

Ayame

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