日本書紀 継体帝 記述抜粋 804
次に日本書紀の「継体帝」記述を。
「男大迹天皇更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦主人王之子也
母曰振媛 振媛活目天皇七世之孫也
天皇父聞振媛顏容妹妙甚有媺色 自近江國髙嶋郡三尾之別業
遣使聘于三國坂中井 中此云那 納以爲妃 遂産天皇
天皇幼年 父王薨 中略
天皇年五十七歲 (武烈)八年冬十二月己亥 小泊瀬天皇崩
元無男女 可絶繼嗣」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 継体帝 P8の11行目)
*彦太尊(ひこふとのみこと)・・・男大迹天皇の別名
*譽田天皇=応神帝
*彦主人王(ひこあるしのきみ)・・・継体帝の父
*振媛(ふるひめ)・・・継体帝の母
*活目天皇(いくめのすめらみこと)=垂仁帝
*小泊瀬天皇=武烈帝
垂仁・応神・継体帝の順列は
「神武元年~推古八年=1260年」でご確認ください。
古事記の継体帝についての情報は「応神帝5世孫」のみ。
一方、日本書紀は「父母名、及び、母の振媛が垂仁帝7世孫」と。
それに続いて、継体帝の父と母との馴れ初め、今日日は「婚活」。
継体帝の父は素敵(媺色)な奥様をゲットできた感じ?
但し、彼は後の継体帝が幼い時になくなられたとの事。
又、古事記との大きな相違点は継体帝のお歳。
古事記では御年、43歳で崩御、
日本書紀では武烈帝崩御年(506年12月)の時点で57歳と
記載されているのです。これ又違いすぎでは??? 続く。

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