釈日本紀一云に応神帝5世孫詳細 805
日本書紀で「応神帝5世孫」情報は古事記に比して格段と増えました。
しかし、応神帝から継体帝に連なる方々が記載されていません。
これは日本書紀編纂者の作り話かと思いきや全くそうではないのです。
「釈日本紀」に「上宮記」で引用された「一云」書物内容の記述があり、
そこに継体帝の「応神帝5世孫」、及び母の振媛の「垂仁帝7世孫」が
子細に記入されているのです。
*釈日本紀
「日本書紀」の註釈書。二八巻。卜部懐賢(兼方)編著。
文永一一~正安三年間(1274~1301)に成立。
奈良時代以降の書紀研究と卜部家々説を集大成したもの。
訓や本書以前の書紀研究史が知られ、
引用文によって現在失われている古書類をうかがえる。
(日本国語大辞典 小学館)
*上宮記(かみつみやのふみ)
少なくても7世紀前半迄に作成されたと考えられる歴史書。
*上宮
上宮太子の別称、又、太子の宮。
古事記では
上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのむまやとのとよとみみのみこと)
日本書紀(推古帝)では
厩戸豊聡耳皇子命(むまやとのとよとみみのみこのみこと)
と表記され、後の聖徳太子と命名されたお方です。
それでは釈日本紀の内容です。
「男大迹天皇更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦主人王之子也
母曰振媛(ここ迄、日本書紀はそのまま記載)
上宮記 一云
凡牟都和希王 娶絰俣那加都比古女子 名弟比賣麻和加 中略
伊波禮宮治天下乎富等大公王也」
(国立国会図書館 電子図書館 釈日本紀 第十七 男大迹天皇)
日本書紀の「凡牟都和希王(ほむつわけおほきみ=応神帝)」
未記載事情は分量が多い為、
逸失した「系図巻」に記述されていたやも? 続く。

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