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2022年4月30日 (土)

応神帝5世孫・垂仁帝7世孫 806

先週、紹介した「釈日本紀一云」で中略にした箇所になります。

《継体帝 応神帝5世孫》
凡牟都和希王(応神帝 ほむつわけ)
弟比賣麻和加
  一世 若野毛二俣王
      母々恩己麻和加比賣
   二世 大郎子(おほいらっこ 別名 意富富等〈おほほど〉王)
       中斯和命
     三世 乎非(をひ)王
         久留比賣命
            四世 汙斯(うし)王(=彦主人王 日本書紀表記)
                布利比賣命(振媛 日本書紀表記)
        五世 乎富等(をほど)大公王(継体帝 男大迹王 書紀)

《母の振媛 垂仁帝7世孫》
伊久牟尼利比古大王(垂仁帝 いくむにりひこ)
 一世 伊波都久和希(いわつくわき)
   二世 偉波智和希(いわちわき)
     三世 伊波己里和氣(いわこりわき)
      四世 麻和加介(まわかけ)
        五世 阿加波智君(あかはちのきみ)
         六世 乎波智君(をはちのきみ)
           七世 都奴牟斯君(兄 つぬむしのきみ)
              布利比賣命(妹 振媛

国立国会図書館 電子図書館 釈日本紀 第十七 男大迹天皇)

これにて「日本書紀」の未記載部分が明らかに。
但し、下記をご覧下さい。(日本書紀紀年)

代 帝名   在位期間             在位年
10 崇神帝 B.C.97年01月~B.C.30年12月 68年
11 垂仁帝 B.C.29年01月~070年07月   99年
12 景行帝 071年07月~130年11月     60年
13 成務帝 131年01月~190年06月     60年
14 仲哀帝 192年01月~200年02月     09年
00 神功帝 201年10月~269年04月     69年
15 応神帝 270年01月~310年02月     41年
16 仁徳帝 313年01月~399年01月     87年

応神帝5世・垂仁帝7世孫は垂仁・応神帝の実在を前提としています。
しかし、「讖緯説 1260年遡る辛酉年 B.C.660年橿原宮で即位」を貫く為
無理筋で帝・在位期間を設定していますのでとても紀年は参考不可。
「神武元年~推古八年=1260年」
「B.C.660年神武帝 橿原宮で即位」 をご確認ください。
従って、史実・真偽は定かでありませんことよ。 続く。

Ayame

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2022年4月23日 (土)

釈日本紀一云に応神帝5世孫詳細 805

日本書紀で「応神帝5世孫」情報は古事記に比して格段と増えました。
しかし、応神帝から継体帝に連なる方々が記載されていません。
これは日本書紀編纂者の作り話かと思いきや全くそうではないのです。
「釈日本紀」に「上宮記」で引用された「一云」書物内容の記述があり、
そこに継体帝の「応神帝5世孫」、及び母の振媛の「垂仁帝7世孫」が
子細に記入されているのです。
*釈日本紀
「日本書紀」の註釈書。二八巻。卜部懐賢(兼方)編著。
文永一一~正安三年間(1274~1301)に成立。
奈良時代以降の書紀研究と卜部家々説を集大成したもの。
訓や本書以前の書紀研究史が知られ、
引用文によって現在失われている古書類をうかがえる。
(日本国語大辞典 小学館)
*上宮記(かみつみやのふみ)
少なくても7世紀前半迄に作成されたと考えられる歴史書。
*上宮
上宮太子の別称、又、太子の宮。
古事記では
上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのむまやとのとよとみみのみこと)
日本書紀(推古帝)では
厩戸豊聡耳皇子命(むまやとのとよとみみのみこのみこと)
と表記され、後の聖徳太子と命名されたお方です。
それでは釈日本紀の内容です。

「男大迹天皇更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦主人王之子也
 母曰振媛(ここ迄、日本書紀はそのまま記載)
 上宮記 一云
 凡牟都和希王 娶絰俣那加都比古女子 名弟比賣麻和加  中略
 伊波禮宮治天下乎富等大公王也」
国立国会図書館 電子図書館 釈日本紀 第十七 男大迹天皇)

日本書紀の「凡牟都和希王(ほむつわけおほきみ=応神帝)」
未記載事情は分量が多い為、
逸失した「系図巻」に記述されていたやも? 続く。

Ayame

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2022年4月16日 (土)

日本書紀 継体帝 記述抜粋 804

次に日本書紀の「継体帝」記述を。

「男大迹天皇更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦主人王之子也
 母曰振媛 振媛活目天皇七世之孫也
 天皇父聞振媛顏容妹妙甚有媺色 自近江國髙嶋郡三尾之別業
 遣使聘于三國坂中井 中此云那 納以爲妃 遂産天皇
 天皇幼年 父王薨  中略
 天皇年五十七歲 (武烈)八年冬十二月己亥 小泊瀬天皇崩
 元無男女 可絶繼嗣」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 継体帝 P8の11行目)
*彦太尊(ひこふとのみこと)・・・男大迹天皇の別名
*譽田天皇=応神帝
*彦主人王(ひこあるしのきみ)・・・継体帝の父
*振媛(ふるひめ)・・・継体帝の母
*活目天皇(いくめのすめらみこと)=垂仁帝
*小泊瀬天皇=武烈帝
垂仁・応神・継体帝の順列は
「神武元年~推古八年=1260年」でご確認ください。

古事記の継体帝についての情報は「応神帝5世孫」のみ。
一方、日本書紀は「父母名、及び、母の振媛が垂仁帝7世孫」と。
それに続いて、継体帝の父と母との馴れ初め、今日日は「婚活」。
継体帝の父は素敵(媺色)な奥様をゲットできた感じ?
但し、彼は後の継体帝が幼い時になくなられたとの事。
又、古事記との大きな相違点は継体帝のお歳。
古事記では御年、43歳で崩御、
日本書紀では武烈帝崩御年(506年12月)の時点で57歳と
記載されているのです。これ又違いすぎでは??? 続く。

Ayame

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2022年4月 9日 (土)

古事記 継体帝 記述抜粋 803

「今生天皇」のご先祖様(父系)に当たる「継体帝」について。
古事記の記述が簡潔ですので先ずこちらから。

「小長谷若鷦鷯命 坐長谷之列木宮 治天下捌歲也
 此天皇 无太子 故爲御子代 定小長谷部也 御陵在片岡之石坏岡也
 天皇既崩 無可知日續之王 故品太天皇五世之孫 袁本杼命
 自近淡海國 令上坐而 令(→合)於手白髮命 授奉天下也
 袁本杼命 坐伊波礼之玉穗宮 治天下也   中略
 此御世 竺紫君石井 不從天皇之命而 多无禮
 故遣 物部荒甲之大連 大伴之金村連 二人而 殺石井也
 天皇御年 肆拾參歲 丁未年四月九日崩
 御陵者 三嶋之藍御陵也」
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記P158の14行目)
*小長谷若鷦鷯命(をはつせのわかさざきのみこと)=武烈帝
  小泊瀬天皇(をはつせのすめらみこと 日本書紀表記)
*捌(ハツ・ハチ)=8
*品太天皇(ほむたのすめらみこと)=応神帝
  譽田天皇(日本書紀表記)
*袁本杼命(をほどのみこと)=継体帝
  男大迹王(をほどのおほきみ 日本書紀表記)
*中略・・・ここは継体帝の奥様とご子息が記載されています。
             「仁賢帝~武烈帝~継体帝へ古事記原文」でご確認を。
*手白髮命(たしらかのみこと)=手白髮郎女(たしらかのいらつめ)
  手白香皇女(たしらかのひめみこ 日本書紀表記)
  父は仁賢帝 母は春日大郎女(雄略帝のお嬢さん)
*竺紫君石井・・・筑紫君磐井(日本書紀表記)
*物部荒甲之大連(もののべあらかいのおおむらじ)
  物部麁鹿火(日本書紀表記)
*大伴之金村連(おおとものかなむらのむらじ)
*肆(シ)拾參歲=43歳
*丁未(テイビ ひのとのひつじ)→527年

武烈帝に奥さんもお子さんもなく崩御されたので
「無可知日續之王」(日続《=日嗣ひつぎ》 知らすべき王無かり)
「故品太天皇五世之孫 袁本杼命 自近淡海國 令上坐而
 合於手白髮命 授奉天下也」
(故に品太天皇五世の孫、袁本杼命を近つ淡海国より上りまさしめ
 手白髪命を妻合わせ、天下を授け奉りき)
との事なのです。 続く。

Sakura

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2022年4月 2日 (土)

日本書紀・古事記の崩御年違い 802

先週、飯豊皇女の件で日本書紀の不甲斐ないお話をしました。
ここで日本書紀が展開する雄略帝~推古帝の在位期間など。

代 帝名  在位期間          在位年 古事記崩御年
21 雄略帝 456年11月~479年08月 23年 489年
22 清寧帝 480年01月~484年01月 05年
23 顕宗帝 485年01月~487年04月 03年
24 仁賢帝 488年01月~498年08月 11年
25 武烈帝 498年12月~506年12月 08年
26 継体帝 507年02月~531年02月 25年 527年
27 安閑帝 531年02月~535年12月 04年 535年
28 宣化帝 535年12月~539年02月 04年
29 欽明帝 539年12月~571年04月 32年
30 敏達帝 572年04月~585年08月 14年 584年
31 用明帝 585年09月~587年04月 02年 587年
32 崇峻帝 587年08月~592年11月 05年 592年
33 推古帝 592年12月~628年03月 36年 628年
(応神帝~雄略帝は「倭の五王」でご確認を
 又、古事記崩御年の空白は古事記に記載されていないのです。)

すぐお気づきになると思いますが、「雄略帝」の崩御年の違い。
日本書紀では479年、古事記では489年で10年の差があるのです。
これって酷(ひど)過ぎません。
「継体帝」は4年、「安閑帝」は一致、「敏達帝」は1年、
そして、やっと、「用明・崇峻・推古帝」で全て一致する事になるのです。
又、継体帝は534年崩御とも記述されていますのでこちらなら7年差。
この件に関しましては再度確認してみます。

一方、飯豊皇女さん、日本書紀を信じれば
中皇命(なかつすめらみこと)=中継ぎ女帝になられたのは
清寧帝と顕宗帝との間484年2月~11月になりますが・・・・・。 続く。

Sakura

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