隋・文帝と倭国・推古帝の接触以前 800
「宋書」の「武=雄略帝」による倭遣使上表を紹介して
無理筋で、478年迄進んだ格好になっていますがとても苦しい局面。
なぜかと云えば、
「倭の五王」などの「宋書」と「日本書紀」の不一致から、
かの時代、一体どのような「出来事」が起こっていたのか、
「ちんぷんかんぷん(珍紛漢紛」なのです。
とは云うものの、
この時代を過ごされた方々には何も問題はないのです。
彼ら彼女は精一杯、楽しくお過ごしになったと思われます。
後の世に生を受けたわたくし共がとやかく言う筋合いは無いのです。
基本的に東アジアは「中華王朝」が牛耳り、周辺国に影響を与えて
いた「感」は否めません。
従って、ここはあくまでも中華王朝の「史書」に頼るしか・・・・・。
(この「史書」もご自分達に都合が良い事のみの記述であるとしても。)
であれば、結果の課程を全く無視し、
政治権力獲得者の変遷記録は「あったんだ。」と判断するより・・・・・。
そんなこんなで各々史書に依りお隣、中国は
《魏・北斉・周書(北朝) 宋・南斉・梁・陳書(南朝) ⇒ 隋書(統一)》
「北魏(386~534)」
「北魏」が東魏(534~550)と西魏(535~556)に分裂、それらが各々
東魏 → 北斉(550~577 北周に敗北)、
西魏 → 北周(556~581) → 隋(中国再統一581~618)と。
「南朝宋(420~479」 → 南朝斉(479~502) → 南朝梁(502~557)
→ 南朝陳(557~589) → 隋(中国再統一581~618)と。
もっとお隣、朝鮮半島は《中国史書、及び、三国史記》
高句麗(B.C.?~668)
百済(346近肖古王~660)
新羅(377~935)
そして、倭国の帝位変遷は《日本書紀》
☆河内王朝(仁徳帝~)
雄略帝(456~479)→清寧帝(480~484)→
☆播磨王朝
顕宗帝(485~487)→仁賢帝(488~498)→武烈帝(498~506)→
☆近江・越前王朝
継体帝(507~531)→安閑帝(531~535)→宣化帝(535~539)→
欽明帝(539~571)→敏達帝(572~585)→用明帝(585~587)→
崇峻帝(587~592)→推古帝(592~628)
と推移したことになってます。
*隋書
史書。八十五巻。唐の太宗(李世民)の時、魏徴らの奉勅撰。
24史の一つ。636年帝紀五巻・列伝五〇巻が成立。
のち経籍志など五代史志(十志)三〇巻が編入された。
*三国史記
朝鮮の史書。五〇巻。金富軾(ふしょく)らが編纂。高麗仁宗二三年
(1145年)成立。新羅・高句麗・百済三国の歴史を紀伝で記す。
官撰で現存最古の三国時代に関する唯一の正史で、
朝鮮古代史研究に貴重な資料を提供している。
特に地理志の古地名は言語学上重要。(日本国語大辞典 小学館)
中国史書に雄略帝以降~崇峻帝迄の期間、
殆ど「倭」状況・情報が記述されていませんので飛ばしたいのですが
「倭人」の末裔として気が引けますので来週は
「今生天皇」のご先祖様(父系)に当たる「継体帝」に触れてみます。
続く。
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