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2022年3月12日 (土)

武遣使上表から倭の五王は 799

478年「武」の遣使に託した「上表」に
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋涉山川 不遑寧處」とあります。
《昔より祖禰(そでい=祖父)が自ら甲冑を着て
 山川を越え色んな所へ出かけて安寧する時空がなかった。》
「宋書」《讃・珍》 済⇒《興・武》
「梁書」《賛・弥》⇒済⇒《興・武》より《賛・弥》に該当。
「日本書紀」から武→雄略帝にすると祖父は仁徳帝になります。
仁徳帝の宮(お住まい処)から
東側方面地域では55国を
西側方面地域では66国を征服、更に海を渡り
海北方面地域では95国を平定と。
征服・平定国を合計すると216国にもなってしまいます。
この「国」概念は現代の「村=邑」感覚と思われます。
又、日本海を渡り、「佐渡・隠岐」等へ出かけたのではなく
「道逕百濟 裝治船舫 而句驪無道」
《道程は百済を経て(南朝宋へ向かう)船を整るも高句麗は非道。》
「百済」・「高句麗」と云う固有名詞の登場から
何と仁徳帝は朝鮮半島まで出かけた事になります。
次に
「臣亡考濟實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬
 義聲感激 方欲大舉 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣」
《臣 亡考(=亡父)の「済」は順帝へご挨拶に伺う天路(道筋)を塞ぐ
 高句麗に怒り、鉄槌を食らわす試みも、急に「父兄」が亡くなり
 成し遂げられていない。》
「亡考(=亡父)済」から「済」は雄略帝の父、允恭帝になります。
「喪父兄」から雄略帝の兄、安康帝になり、宋書では「康」に。
従って
武 → 雄略帝とすると
賛(讚)・弥 → 仁徳帝 済 → 允恭帝 康 → 安康帝 の関係に。
但し、この関係はあくまでも、武=雄略帝と仮定した場合のみ成立。
「日本書紀」に南朝晋・宋へのお土産持参のご挨拶は
全く以て記述されていません。
「晋・宋・梁書」の架空記載、或いは、
「日本書紀」編纂者が敢えて触れなかった、はたまた
「日本書紀」記載の帝ではなかった、の何れかになります。
基本的には「日本書紀」編纂者の不記載になると思われます。
「日本書紀」編集責任者は「天皇=実際は大王(おほきみ)」が
南朝晋・宋におべっかを使う臣下とはおくびにも出せなかったのでは?
又、南朝晋・宋にとって、きっと以て、
倭・倭国は危害を及ぼさず、構ってやれなく、取るに足らない
存在だったんですよ。
(だって、南朝晋・宋の内・外抗争やらが大変だったんですもの。)

これって、何か、今現在の状況と遜色がなく「≒」では・・・・・? 続く。

Sakura

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