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2022年3月26日 (土)

飯豊皇女は顕宗・仁賢帝の叔母・妹・姉? 801

以前紹介しましたが、雄略帝~継体帝に至る著述は「続守言」です。
「続守言・薩弘恪 日本書紀を執筆」
「日本書紀 各巻執筆順序」
従って、「文語漢文」文体表記には全く問題ありません。
但し、記載内容は「続守言」ではなく「編纂者」の企図になるのです。

因みに、女帝でもあったとも云われている
「青海(飯豊)皇女」の出自について二通り存在するのです。

「秋七月己酉朔壬子 立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃
 妃生磐坂市邊押羽皇子 御馬皇子 青海皇女 (一日飯豐皇女)
 次妃幡梭皇女生中磯皇女 是年也太歳庚子(400年)」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 履中帝 P31の3行目)

青海(飯豊)皇女
父は履中帝で
母は葦田宿禰のお嬢さん黒媛。

「弘計(=顕宗)天皇(更名來目稚子) 大兄去來穗別天皇孫也
 市邊押磐皇子子也 母曰荑媛(荑此云波曳 譜第曰
 市邊押磐皇子娶蟻臣女荑媛 遂生三男二女 其一曰居夏姫
 其二曰億計王 更名嶋稚子 更名大石尊 其三曰弘計王
 更名來目稚子 其四曰飯豐女 亦名忍海部女王
 其五曰橘王 一本以飯豐女王 列叙於億計王之上
 蟻臣者葦田宿禰子也)」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 顕宗帝 P36の13行目)
*譜第(フダイ)
家々の族姓・系統を示す呼び名。又、族姓・系統を証する系譜。
(日本国語大辞典 小学館)
*億計王→仁賢帝 *弘計王→顕宗帝

飯豊女(忍海部女王 飯豊女王)
父は履中帝の息子、市辺押磐皇子で
母は蟻臣(葦田宿禰の子)のお嬢さん荑(はえ)媛。
兄に億計王と弘計王がいて彼女は「妹」の存在。

「五年(484年)春正月 白髮天皇崩 是月皇太子億計王與天皇讓位
 久而不處 由是天皇(顕宗帝)飯豊青皇女
 於忍海角刺宮臨朝秉政 自稱忍海飯豊青尊」
国立国会図書館 電子図書館 古事記 履中帝 P40の11行目)
*白髮天皇→清寧帝

ここでの飯豊青皇女は「姉」になっています。

青海(飯豊)皇女=飯豊女(忍海部女王 飯豊女王)は
顕宗・仁賢帝の叔母、或いは、姉に設定されているのです。
「一体どうなっているの?」ってな感じでしょう。
続守言さんもきっと疑問に思った筈では?
基本的には日本書紀編纂者達も「事実不明」だったのです。
因みに「古事記」では

「伊邪本和氣命(履中帝) 坐伊波禮之若櫻宮 治天下也
 此天皇 娶葛城之曾都毘古之子 葦田宿禰之女 名黒比賣命
 生御子、市邊之忍齒王 次御馬王 次妹青海郎女 亦名飯豐郎女」
国立国会図書館 電子図書館 古事記 履中帝 P88の13行目)

彼女は顕宗・仁賢帝の叔母と記載されています。 
「飯豊郎女は女帝だったやも」 続く。

Sakura

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2022年3月19日 (土)

隋・文帝と倭国・推古帝の接触以前 800

「宋書」の「武=雄略帝」による倭遣使上表を紹介して
無理筋で、478年迄進んだ格好になっていますがとても苦しい局面。
なぜかと云えば、
「倭の五王」などの「宋書」と「日本書紀」の不一致から、
かの時代、一体どのような「出来事」が起こっていたのか、
「ちんぷんかんぷん(珍紛漢紛」なのです。
とは云うものの、
この時代を過ごされた方々には何も問題はないのです。
彼ら彼女は精一杯、楽しくお過ごしになったと思われます。
後の世に生を受けたわたくし共がとやかく言う筋合いは無いのです。
基本的に東アジアは「中華王朝」が牛耳り、周辺国に影響を与えて
いた「感」は否めません。
従って、ここはあくまでも中華王朝の「史書」に頼るしか・・・・・。
(この「史書」もご自分達に都合が良い事のみの記述であるとしても。)
であれば、結果の課程を全く無視し、
政治権力獲得者の変遷記録は「あったんだ。」と判断するより・・・・・。

そんなこんなで各々史書に依りお隣、中国は
《魏・北斉・周書(北朝) 宋・南斉・梁・陳書(南朝) ⇒ 隋書(統一)》
「北魏(386~534)」
「北魏」が東魏(534~550)と西魏(535~556)に分裂、それらが各々
東魏 → 北斉(550~577 北周に敗北)、
西魏 → 北周(556~581) → 隋(中国再統一581~618)と。
「南朝宋(420~479」 → 南朝斉(479~502) → 南朝梁(502~557)
→ 南朝陳(557~589) → 隋(中国再統一581~618)と。
もっとお隣、朝鮮半島は《中国史書、及び、三国史記》
高句麗(B.C.?~668)
百済(346近肖古王~660)
新羅(377~935)
そして、倭国の帝位変遷は《日本書紀》
☆河内王朝(仁徳帝~)
雄略帝(456~479)→清寧帝(480~484)→
☆播磨王朝
顕宗帝(485~487)→仁賢帝(488~498)→武烈帝(498~506)→
☆近江・越前王朝
継体帝(507~531)→安閑帝(531~535)→宣化帝(535~539)→
欽明帝(539~571)→敏達帝(572~585)→用明帝(585~587)→
崇峻帝(587~592)→推古帝(592~628)
と推移したことになってます。
*隋書
史書。八十五巻。唐の太宗(李世民)の時、魏徴らの奉勅撰。
24史の一つ。636年帝紀五巻・列伝五〇巻が成立。
のち経籍志など五代史志(十志)三〇巻が編入された。
*三国史記
朝鮮の史書。五〇巻。金富軾(ふしょく)らが編纂。高麗仁宗二三年
(1145年)成立。新羅・高句麗・百済三国の歴史を紀伝で記す。
官撰で現存最古の三国時代に関する唯一の正史で、
朝鮮古代史研究に貴重な資料を提供している。
特に地理志の古地名は言語学上重要。(日本国語大辞典 小学館)
中国史書に雄略帝以降~崇峻帝迄の期間、
殆ど「倭」状況・情報が記述されていませんので飛ばしたいのですが
「倭人」の末裔として気が引けますので来週は
「今生天皇」のご先祖様(父系)に当たる「継体帝」に触れてみます。
 続く。

Sakura

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2022年3月12日 (土)

武遣使上表から倭の五王は 799

478年「武」の遣使に託した「上表」に
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋涉山川 不遑寧處」とあります。
《昔より祖禰(そでい=祖父)が自ら甲冑を着て
 山川を越え色んな所へ出かけて安寧する時空がなかった。》
「宋書」《讃・珍》 済⇒《興・武》
「梁書」《賛・弥》⇒済⇒《興・武》より《賛・弥》に該当。
「日本書紀」から武→雄略帝にすると祖父は仁徳帝になります。
仁徳帝の宮(お住まい処)から
東側方面地域では55国を
西側方面地域では66国を征服、更に海を渡り
海北方面地域では95国を平定と。
征服・平定国を合計すると216国にもなってしまいます。
この「国」概念は現代の「村=邑」感覚と思われます。
又、日本海を渡り、「佐渡・隠岐」等へ出かけたのではなく
「道逕百濟 裝治船舫 而句驪無道」
《道程は百済を経て(南朝宋へ向かう)船を整るも高句麗は非道。》
「百済」・「高句麗」と云う固有名詞の登場から
何と仁徳帝は朝鮮半島まで出かけた事になります。
次に
「臣亡考濟實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬
 義聲感激 方欲大舉 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣」
《臣 亡考(=亡父)の「済」は順帝へご挨拶に伺う天路(道筋)を塞ぐ
 高句麗に怒り、鉄槌を食らわす試みも、急に「父兄」が亡くなり
 成し遂げられていない。》
「亡考(=亡父)済」から「済」は雄略帝の父、允恭帝になります。
「喪父兄」から雄略帝の兄、安康帝になり、宋書では「康」に。
従って
武 → 雄略帝とすると
賛(讚)・弥 → 仁徳帝 済 → 允恭帝 康 → 安康帝 の関係に。
但し、この関係はあくまでも、武=雄略帝と仮定した場合のみ成立。
「日本書紀」に南朝晋・宋へのお土産持参のご挨拶は
全く以て記述されていません。
「晋・宋・梁書」の架空記載、或いは、
「日本書紀」編纂者が敢えて触れなかった、はたまた
「日本書紀」記載の帝ではなかった、の何れかになります。
基本的には「日本書紀」編纂者の不記載になると思われます。
「日本書紀」編集責任者は「天皇=実際は大王(おほきみ)」が
南朝晋・宋におべっかを使う臣下とはおくびにも出せなかったのでは?
又、南朝晋・宋にとって、きっと以て、
倭・倭国は危害を及ぼさず、構ってやれなく、取るに足らない
存在だったんですよ。
(だって、南朝晋・宋の内・外抗争やらが大変だったんですもの。)

これって、何か、今現在の状況と遜色がなく「≒」では・・・・・? 続く。

Sakura

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2022年3月 5日 (土)

宋書 倭遣使上表 華麗な文体 798

今週は、昨年の年末から今年にかけて頭を痛めた
宋書・梁書の「倭の五王」が「日本書紀」と全く比定不可について。
後、残された手がかりは南朝宋が滅亡する前年、
「雄略帝」と思われる「武」が南朝宋(420~479)の
 順帝(469~479在位477~479)へしたためた「上表(お手紙)」が。
「宋書」を編纂した「沈約」がこの「上表」を書き留めたのですから
偉く気に入った文章に他ならなかったのでしょう?
これを作成した方は当然、「漢文著述」に長けた中国系渡来人。
425年「讃」遣使の名前が「司馬曹達」と記載されています。
この方も中国系渡来人の官吏で中国語会話が得てと考えられます。
この際も「表」を奉じています。
この表の内容は記述されていないので美しい文体でなかったのやも?
それでは、
478年「武」遣使が届けた華麗な文体です。

「順帝昇明二年(478年)
 遣使上表曰
  封國偏遠 作藩于外
  自昔祖禰 躬擐甲冑 跋涉山川 不遑寧處
  東征毛人五十五國
  西服眾夷六十六國
  渡平海北九十五國
  王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歲
  臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極
  道逕百濟 裝治船舫
  而句驪無道 圖欲見吞 掠抄邊隸
  虔劉不已 每致稽滯 以失良風
  雖曰進路 或通或不
  臣亡考濟實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬
  義聲感激 方欲大舉 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣
  居在諒闇 不動兵甲 是以偃息未捷
  至今欲練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文武效功
  白刃交前 亦所不顧
  若以帝德覆載 摧此強敵 克靖方難 無替前功
  竊自假開府儀同三司 其餘咸各假授
  以勸忠節
 詔除武 使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六國諸軍事
 安東大將軍 倭王」
以下の()内は旧字体に対する新字体です。
素敵な文字配列が崩れるので敢えて挿入しませんでした。
國(国) 禰(祢) 涉(渉) 處(処) 眾(衆) 歲(歳) 歸(帰)
濟(済) 驅(駆) 裝(装) 驪(麗) 圖(図) 邊(辺) 每(毎)
實(実) 讎(讐) 萬(万) 舉(挙) 效(効) 德(徳) 竊(窃)
假(仮) 餘(余) 勸(勧) 將(将) 句驪=高句麗
「宋書 巻九十七 列伝第五十七 夷蛮 東夷 倭国」
 続く。

Sakura

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