飯豊皇女は顕宗・仁賢帝の叔母・妹・姉? 801
以前紹介しましたが、雄略帝~継体帝に至る著述は「続守言」です。
「続守言・薩弘恪 日本書紀を執筆」
「日本書紀 各巻執筆順序」
従って、「文語漢文」文体表記には全く問題ありません。
但し、記載内容は「続守言」ではなく「編纂者」の企図になるのです。
因みに、女帝でもあったとも云われている
「青海(飯豊)皇女」の出自について二通り存在するのです。
「秋七月己酉朔壬子 立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃
妃生磐坂市邊押羽皇子 御馬皇子 青海皇女 (一日飯豐皇女)
次妃幡梭皇女生中磯皇女 是年也太歳庚子(400年)」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 履中帝 P31の3行目)
青海(飯豊)皇女
父は履中帝で
母は葦田宿禰のお嬢さん黒媛。
「弘計(=顕宗)天皇(更名來目稚子) 大兄去來穗別天皇孫也
市邊押磐皇子子也 母曰荑媛(荑此云波曳 譜第曰
市邊押磐皇子娶蟻臣女荑媛 遂生三男二女 其一曰居夏姫
其二曰億計王 更名嶋稚子 更名大石尊 其三曰弘計王
更名來目稚子 其四曰飯豐女 亦名忍海部女王
其五曰橘王 一本以飯豐女王 列叙於億計王之上
蟻臣者葦田宿禰子也)」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 顕宗帝 P36の13行目)
*譜第(フダイ)
家々の族姓・系統を示す呼び名。又、族姓・系統を証する系譜。
(日本国語大辞典 小学館)
*億計王→仁賢帝 *弘計王→顕宗帝
飯豊女(忍海部女王 飯豊女王)
父は履中帝の息子、市辺押磐皇子で
母は蟻臣(葦田宿禰の子)のお嬢さん荑(はえ)媛。
兄に億計王と弘計王がいて彼女は「妹」の存在。
「五年(484年)春正月 白髮天皇崩 是月皇太子億計王與天皇讓位
久而不處 由是天皇(顕宗帝)姉飯豊青皇女
於忍海角刺宮臨朝秉政 自稱忍海飯豊青尊」
(国立国会図書館 電子図書館 古事記 履中帝 P40の11行目)
*白髮天皇→清寧帝
ここでの飯豊青皇女は「姉」になっています。
青海(飯豊)皇女=飯豊女(忍海部女王 飯豊女王)は
顕宗・仁賢帝の叔母、或いは、姉に設定されているのです。
「一体どうなっているの?」ってな感じでしょう。
続守言さんもきっと疑問に思った筈では?
基本的には日本書紀編纂者達も「事実不明」だったのです。
因みに「古事記」では
「伊邪本和氣命(履中帝) 坐伊波禮之若櫻宮 治天下也
此天皇 娶葛城之曾都毘古之子 葦田宿禰之女 名黒比賣命
生御子、市邊之忍齒王 次御馬王 次妹青海郎女 亦名飯豐郎女」
(国立国会図書館 電子図書館 古事記 履中帝 P88の13行目)
彼女は顕宗・仁賢帝の叔母と記載されています。
「飯豊郎女は女帝だったやも」 続く。
