日本書紀 各巻執筆順序 797
《日本書紀 各巻 執筆者、及び、採用暦》を再度ご確認下さい。
先週、日本書紀巻第◯一 神代上~巻第十三 允恭・安康帝は
儀鳳暦を適用、698年以降に執筆されたお話ししました。
従って、元嘉暦を使用した巻第十四 雄略帝(安康元年~)~は
当然、それ以前に記述された事になります。
そして、この事実は記載されている文章からも判明するのです。
「(安康帝)三年(456年)秋八月甲申朔壬辰 天皇爲眉輪王見弑
注《辭(辞)具在大泊瀬天皇紀》」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P50の16行目)
(安康帝が「眉輪王」に殺害された「辞(こと)」は「具(つぶさに)」
「大泊瀬天皇紀=雄略帝」に「在(あり)」)
上記により巻第十四 雄略帝が先に著述された事に。
(注 三年(456年)秋八月甲申朔の「甲申」は元嘉暦平朔の暦法
山田史御方は続守言先行執筆の雄略帝に同期させたのです。
小川清彦さんの「日本書紀の暦日の正体」P18
「月朔及閏月異同対照表」の安康三年八月甲申行の左
元嘉暦欄 「甲甲」⇒「甲申」になります。)
確かに
「大泊瀬幼武天皇(=雄略帝)
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭帝)第五子也 天皇産而神光滿殿
長而伉健過人
(安康帝)三年(456年)八月 穴穗天皇意(安康帝)將沐浴
幸于山宮 遂登樓兮遊目 因命酒兮肆宴 中略
既而穴穗天皇枕皇后膝 晝醉眠臥
於是 眉輪王伺其熟睡而刺殺之」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 雄略帝 P2の3行目)
安康帝は「沐浴(=湯浴み)」をしようと「山宮」へお出かけになった。
「樓」に登り下界を見渡した後、「宴席」を所望、 中略
安康帝は皇后の「膝枕」で酔いで眠りに落ち、ここに於いて
眉輪王は帝の状況を窺い、「熟睡」の帝を刺殺してしまった。
この様に雄略帝殺害状況が詳細に語られています。
「森博達」さんの考察に基づき、
《日本書紀 各巻執筆順 執筆者・採用暦》整理しますと、
★文語漢文を駆使可能な続守言・薩弘恪が先行
巻第十四 雄略帝 続守言 元嘉暦平朔 ↓
巻第十五 清寧・顕宗・仁賢帝 続守言
巻第十六 武烈帝 続守言
巻第十七 継体帝 続守言
巻第十八 安閑・宣化帝 続守言
巻第十九 欽明帝 続守言
巻第二十 敏達帝 続守言
巻第二一 用明・崇峻帝 続守言 崇峻帝4年以前
巻第二四 皇極帝 薩弘恪
巻第二五 孝徳帝 薩弘恪
巻第二六 斉明帝 薩弘恪
巻第二七 天智帝 薩弘恪
★698年以降 和化・仏教漢文で山田史御方が続き
巻第◯八 仲哀帝 山田史御方 儀鳳暦平朔 ↓
巻第◯九 神功皇后 山田史御方
巻第◯十 応神帝 山田史御方
巻第◯五 崇神帝 山田史御方
巻第◯六 垂仁帝 山田史御方
巻第◯七 景行・成務帝 山田史御方
巻第◯三 神武帝 山田史御方
巻第◯四 綏靖・安寧・懿德・孝昭・孝安・孝靈・孝元・開化帝 山田史
巻第◯一 神代上 山田史御方
巻第◯二 神代下 山田史御方
巻第十一 仁徳帝 山田史御方
巻第十二 履中・反正帝 山田史御方
巻第十三 允恭・安康帝 山田史御方(安康帝より元嘉暦平朔 ↓)
巻第二二 推古帝 山田史御方 元嘉暦平朔 ↓
巻第二三 舒明帝 山田史御方
巻第二八 天武帝〈上〉 山田史御方
巻第二九 天武帝〈下〉 山田史御方
★714年以降 紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂が撰述勅諭を受け
巻第二一 崇峻帝4年以降 三宅臣藤麻呂(各巻 加筆修正等担当)
巻第三十 持統帝 紀朝臣清人 元嘉暦・儀鳳暦定朔の併用
以上の順列(山田史は歴史内容順列も加味)で
「日本書紀」が執筆され成立したのです。 続く。

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