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2022年2月26日 (土)

日本書紀 各巻執筆順序 797

《日本書紀 各巻 執筆者、及び、採用暦》を再度ご確認下さい。
先週、日本書紀巻第◯一 神代上~巻第十三 允恭・安康帝は
儀鳳暦を適用、698年以降に執筆されたお話ししました。
従って、元嘉暦を使用した巻第十四 雄略帝(安康元年~)~は
当然、それ以前に記述された事になります。
そして、この事実は記載されている文章からも判明するのです。

「(安康帝)三年(456年)秋八月甲申朔壬辰 天皇爲眉輪王見弑
 注《辭(辞)具在大泊瀬天皇紀》」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P50の16行目)
(安康帝が「眉輪王」に殺害された「辞(こと)」は「具(つぶさに)」
 「大泊瀬天皇紀=雄略帝」に「在(あり)」)
上記により巻第十四 雄略帝が先に著述された事に。
(注 三年(456年)秋八月甲申朔の「甲申」は元嘉暦平朔の暦法
  山田史御方は続守言先行執筆の雄略帝に同期させたのです。
  小川清彦さんの「日本書紀の暦日の正体」P18
  「月朔及閏月異同対照表」の安康三年八月甲申行の左
  元嘉暦欄 「甲甲」⇒「甲申」になります。)
確かに
「大泊瀬幼武天皇(=雄略帝)
 雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭帝)第五子也 天皇産而神光滿殿
 長而伉健過人
 (安康帝)三年(456年)八月 穴穗天皇意(安康帝)將沐浴
 幸于山宮 遂登樓兮遊目 因命酒兮肆宴 中略
 既而穴穗天皇枕皇后膝 晝醉眠臥
 於是 眉輪王伺其熟睡而刺殺之」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 雄略帝 P2の3行目)
安康帝は「沐浴(=湯浴み)」をしようと「山宮」へお出かけになった。
「樓」に登り下界を見渡した後、「宴席」を所望、 中略 
安康帝は皇后の「膝枕」で酔いで眠りに落ち、ここに於いて
眉輪王は帝の状況を窺い、「熟睡」の帝を刺殺してしまった。
この様に雄略帝殺害状況が詳細に語られています。

「森博達」さんの考察に基づき、
《日本書紀 各巻執筆順 執筆者・採用暦》整理しますと、
★文語漢文を駆使可能な続守言・薩弘恪が先行
巻第十四 雄略帝 続守言 元嘉暦平朔 ↓
巻第十五 清寧・顕宗・仁賢帝 続守言
巻第十六 武烈帝 続守言
巻第十七 継体帝 続守言
巻第十八 安閑・宣化帝 続守言
巻第十九 欽明帝 続守言
巻第二十 敏達帝 続守言
第二一 用明・崇峻帝 続守言 崇峻帝4年以前
巻第二四 皇極帝 薩弘恪
巻第二五 孝徳帝 薩弘恪
巻第二六 斉明帝 薩弘恪
巻第二七 天智帝 薩弘恪
★698年以降 和化・仏教漢文で山田史御方が続き
巻第◯八 仲哀帝 山田史御方 儀鳳暦平朔 ↓
巻第◯九 神功皇后 山田史御方
巻第◯十 応神帝 山田史御方
巻第◯五 崇神帝 山田史御方
巻第◯六 垂仁帝 山田史御方
巻第◯七 景行・成務帝 山田史御方
巻第◯三 神武帝 山田史御方
巻第◯四 綏靖・安寧・懿德・孝昭・孝安・孝靈・孝元・開化帝 山田史
巻第◯一 神代上 山田史御方
巻第◯二 神代下 山田史御方
巻第十一 仁徳帝 山田史御方
巻第十二 履中・反正帝 山田史御方
巻第十三 允恭・安康帝 山田史御方(安康帝より元嘉暦平朔 ↓)
巻第二二 推古帝 山田史御方 元嘉暦平朔 ↓
巻第二三 舒明帝 山田史御方
巻第二八 天武帝〈上〉 山田史御方
巻第二九 天武帝〈下〉 山田史御方
★714年以降 紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂が撰述勅諭を受け
巻第二一 崇峻帝4年以降 三宅臣藤麻呂(各巻 加筆修正等担当)
巻第三十 持統帝 紀朝臣清人 元嘉暦・儀鳳暦定朔の併用

以上の順列(山田史は歴史内容順列も加味)で
「日本書紀」が執筆され成立したのです。 続く。

Ume

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2022年2月19日 (土)

日本書紀神代→安康帝 698年~執筆 796

今週は「日本書紀」の暦についてです。
《日本書紀 各巻 執筆者、及び、採用暦》にて
各巻の採用暦が下記のようにお示ししました。

「儀鳳暦平朔」 ⇒ 巻第◯一 神代上~巻第十三 允恭・安康帝
「元嘉暦平朔」 ⇒ 巻第十四 雄略帝~巻第二九 天武帝
「元嘉暦平朔・儀鳳暦定朔」 ⇒ 巻第三十 持統帝
上記の二つの「暦」は中国暦で「暦法」が異なります。
「中国暦」につきましては「国立天文台の暦Wiki」にて
詳しく説明されていますので一度ご確認下さい。
元嘉暦
南朝宋 「何承天(370~447)」の暦法 445~509年使用
 1太陽年=365.24671日 1朔望月=29.530585日
麟徳暦(≒儀鳳暦)
唐「李淳風(602~670)」の暦法 665~728年使用
 1太陽年=365.24478日 1朔望月=29.530597日

因みに干支紀年法で紹介した「後漢四分暦」
 1太陽年=365.25日 1朔望月=29.530851日 と計算していました。
又、現在はおおよそ
 1太陽年=365.242189日 1朔望月=29.530589日(平均)に。

そこで日本書紀の採用暦に戻りますと
巻第十四 雄略帝~が古い暦法(元嘉暦)が使用・著述され、
巻第◯一 神代上~は新しい暦法(儀鳳暦)が適用・記述され、
時系列が真逆になってのいるです。
この事実を明確にされた方が小川清彦(1882~1950)さん。
*小川清彦・・・ 天文・暦学者 東京天文台に勤務
「日本書紀の暦日に就て」(1946年)を著し暦法から日本書紀を考察
日本書紀の暦日の正体 p18「月朔及閏月異同対照表」 小川清彦
我が国の「始用暦日」は604年。
日本書紀で暦法名が表記された箇所は持統帝四年(690年11月)
「(四年)十一月甲戌朔庚辰 賞賜送使金高訓等各有差
 甲申 奉勅始行 元嘉暦 與 儀鳳暦」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P17の14行目)
元嘉暦と儀鳳暦の両方を使用し始めたと。
(月朔→元嘉暦 食計算・公文書→儀鳳暦 と《内田正男氏》)
*内田正男(1921~)・・・暦学者 「日本暦日原典」編者(1975)
儀鳳暦の実質単独使用は文武帝二年(698年)からとされています。
*文武帝(683~707 在位697~707)
父 草壁皇子(662~689)、母 元明天皇(661~721 在位707~715)。
持統天皇の譲位により文武元年(697)に一五歳で即位し、
大宝律令の制定、鋳銭司の設置、慶雲の改革などを行なった。
(日本国語大辞典 小学館)
以上から
日本書紀巻第◯一 神代上~巻第十三 允恭・安康帝は
698年以降に執筆された事になるのです。 続く。

Ume

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2022年2月12日 (土)

山田史御方 日本書紀57%を執筆 795

先週紹介しました《日本書紀 各巻 執筆者、及び、採用暦》、
唐からの渡来人「音博士」お二人以外の執筆者は
山田史御方・紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂の三名。
後ろの紀清人・三宅藤麻呂は和銅七年714年に撰述勅諭されています。
山田史御方は692年に「務広肆」を頂いています。
*務広肆・・・冠位四十八階の32番目の位階 従七位下に相当
 服色は「浅緑」《「浅緑」の色合いは「日本の色(伝統色)見本」で》

「(持統帝六年692年)冬十月壬戌朔壬申 授山田史御形務廣肆
 前爲沙門學問新羅」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P25の8行目)
彼は「沙門=僧侶」として「新羅」に留学、帰国後還俗し文書官僚に。
「森博達」さんに依りますと
彼の文章は
「基本的に『倭音と和化漢文』で述作 中略
 仏教漢文に馴染んでいた。」(「日本書紀の謎を解く」P227)と。
彼は巻第一~十三・巻第二二~二三・巻第二八~二九の17巻を執筆
日本書紀(総数1,306p)の内、746p(約57%)も記述しています。
記述文は文語漢文ではありませんが
お一人でこの分量ですから凄いと思いませんか。
又、同じ年に「音博士」のお二人は三回目のご褒美を頂いています。
「(六年)十二月辛酉朔甲戌 賜音博士續守言 薩弘恪水田人四町」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P25の14行目)
更に、山田史御形(三方)は「続日本紀」に依ると
慶雲四年707年4月 正六位下 賞賜(p54 1行)
和銅三年710年1月 従五位下 4月周防守就任(p77 11行・p78 11行)
養老四年720年1月 従五位上 (p146 5行)
養老五年721年1月 賞賜(p155 1・13行)
と素晴らしい出世を遂げています。
「日本書紀」撰上の記述は養老四年720年5月(p149 6行)に
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀
 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」と。 尚、「日本紀」と表記。
(各々、国立国会図書館 電子図書館 続日本紀 にてご確認を)
*続日本紀
平安初期の官撰国史。いわゆる六国史の第二番目で「日本書紀」
につぐ。四〇巻。光仁天皇の命によって石川名足・淡海三船らが
撰修をはじめ、藤原継縄・菅野真道らに撰進事業が継承されて、
延暦十六年(797年)奏上された。
文武元年~延暦十年(697~791年)の95年間に渡る編年体の記録。
*舎人親王
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の女新田部皇女。
養老二年(718)一品に昇り、同三年(719)元正天皇の詔によって、
皇太子の補佐役となる。同四年(720)、先に勅命を受けて太安万侶
らとともに編修した「日本書紀」を完成させて奏上。同年知太政
官事となって政務を総覧した。天武天皇五~天平七年(676~735)
(日本国語大辞典 小学館) 続く。

Ume

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2022年2月 5日 (土)

続守言・薩弘恪 日本書紀を執筆 794

来倭された「続守言」さん、百済・高句麗侵攻時(660年)、
唐の武将だったのか、或いは、それ以前に唐から派遣された諜報部員
だったのかは不明です。只、唐軍団が百済を侵略後、高句麗討伐に
向かった際、百済占領部隊として残留していたのでしょう。
ところが、唐本体軍がいないので百済残存部隊が駐留軍を奇襲・殲滅、
「続守言」さんらを捕虜にしたと思われます。
その頭目将軍が先週紹介した「(佐平)福信」です。
まさか、「続守言」・「薩弘恪」さんが倭国の「音博士」になるとは
思ってもいなかったのでは?
それとも彼らは唐の諜報職部員の役目柄、倭国の情報を得る事も
可能だったので、好機とも?
そしてこのお二人が「日本書紀」を執筆されていたのではと
「森博達」さんが論理的に考察されています。
(但し、編纂方針・参考資料選択等は天武帝・舎人親王らが主導。)
*森博達(ひろみち 1949~)・・・古代日本語・漢語学者
「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」 (中公新書)
この著書に基づいて下記を作成しました。

《日本書紀 各巻 執筆者・採用暦》
巻数    頁数 巻名   執筆者    採用暦
巻第◯一 82p 神代上 山田史御方(やまだのふひとみかた)
巻第◯二 77p 神代下 山田史御方
巻第◯三 39p 神武帝 山田史御方 儀鳳暦平朔 ↓
巻第◯四 47p 綏靖・安寧・懿德・孝昭・孝安・孝靈・孝元・開化帝 山田
巻第◯五 33p 崇神帝 山田史御方
巻第◯六 19p 垂仁帝 山田史御方
巻第◯七 51p 景行・成務帝 山田史御方
巻第◯八 12p 仲哀帝 山田史御方
巻第◯九 42p 神功皇后 山田史御方
巻第◯十 27p 応神帝 山田史御方
巻第十一 47p 仁徳帝 山田史御方
巻第十二 18p 履中・反正帝 山田史御方
巻第十三 32p 允恭・安康帝 山田史御方(安康帝より元嘉暦)
巻第十四 60p 雄略帝 続守言 元嘉暦平朔 ↓
巻第十五 39p 清寧・顕宗・仁賢帝 続守言
巻第十六 12p 武烈帝 続守言
巻第十七 39p 継体帝 続守言
巻第十八 17p 安閑・宣化帝 続守言
巻第十九 88p 欽明帝 続守言
巻第二十 28p 敏達帝 続守言
巻第二一 24p 用明・崇峻帝 続守言 崇峻帝4年以降 三宅臣藤麻呂
巻第二二 57p 推古帝 山田史御方 元嘉暦平朔 ↓
巻第二三 25p 舒明帝 山田史御方
巻第二四 40p 皇極帝 薩弘恪 元嘉暦平朔 ↓
巻第二五 76p 孝徳帝 薩弘恪
巻第二六 30p 斉明帝 薩弘恪
巻第二七 40p 天智帝 薩弘恪
巻第二八 36p 天武帝〈上〉 山田史御方 元嘉暦平朔 ↓ 
巻第二九102p 天武帝〈下〉 山田史御方
巻第三十 67p 持統帝 紀朝臣清人 元嘉暦・儀鳳暦定朔の併用

(尚、頁数は国会図書館蔵 日本書紀 慶長15年1610年 高木家蔵で)
*儀鳳暦・元嘉暦の平朔と定朔について
*平朔
  太陰暦で、各月の朔をきめるのに、朔望月の平均の長さを順次
  加え朔の日をきめたもの。初期の太陰暦で使われた。
*定朔
  太陰暦で、新月の日が一日(=朔日)となるように、
  小の月(29日)と大の月(30日)とを適当に組み合わせていく暦法。
子細は来週に。 続く。

Ume

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