« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »

2022年1月29日 (土)

音博士 続守言・薩弘恪 来倭 793

先週紹介しました「呉織(くれはとり)」。
この「くれはとり」は単なる「訓読み」とは異なります。
「呉(機)織」の意味合いは「呉の織女の織る綾絹」で
「くれはたおり」⇒「くれはとり」と時経過で訓読み変容しています。
しかしながら、「日本書紀」は「漢字・中国語」で記述されてるのです。
この「漢字・中国語」は文語漢文(純漢文・正則漢文)です。
(「古事記」は文語漢文を基本とし倭口語表記を挿入した「倭製漢文」
 但し、「古事記序文」は正確な文語漢文です。)
従って、本来の「呉織」読みは
4~6世紀頃の南朝音(建康)に依拠する音なら「グ・シキ」、
7~9世紀頃の唐北方音(長安)に依拠する音なら「ゴ・ショク」に。
所謂、南朝音(建康)⇒「呉音」 唐北方音(長安)⇒「漢音」。
*建康・長安は現在の南京・西安に。
この中国音を中国から来倭された方が教えて下さったのです。
これらの方を「音博士(オン《呉音》ハクシ《漢音》)」と称しました。
この「音博士」になられた方が日本書紀に綴られています。

「(持統帝三年 689年)六月壬午朔 賜衣裳筑紫大宰等
 癸未 以皇子施基 直廣肆佐味朝臣宿那麿 羽田朝臣齊
 《齊 此云牟五閇》 勤廣肆伊余部連馬飼 調忌寸老人
 務大參大伴宿禰手拍與巨勢朝臣多益須等拜撰善言司
 庚子 賜大唐續守言 薩弘恪等稻 各有差」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P11の8行目~)
「(五年 691年)九月己巳朔壬申 賜音博士大唐續守言 薩弘恪
 書博士百濟末士善信銀人廿両。」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 持統帝 P20の10行目~)
倭国最初の「音博士」は
「(大)唐」から来られた「続守言」・「薩弘恪」さんのお二人。
689年に「稲」、691年には「銀二十両」をも持統帝より頂いています。
「続守言」さんについては更に情報が記載されています。

「(斉明帝七年 661年)十一月壬辰朔戊戌 以天皇喪殯于飛鳥川原
 自此發哀至于九日
 《日本世記云 十一月 福信所獲唐人績守言等至于筑紫
  或本云 辛酉年(661年) 百濟佐平福信所獻唐俘一百六口
  居于近江國墾田 庚申年(660年)既云福信獻唐俘
  故今存注其決焉》」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 斉明帝 P18の3行目~)
「(天智帝)二年(663年)春二月乙酉朔丙戌 百濟遣達率金受等進調
 新羅人燒燔百濟南畔四州 并取安徳等要地 於是 避城去賊近
 故勢不能居 乃還居於州柔 如田來津之所計
 是月 佐平福信上送唐俘續守言等」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 天智帝 P21の15行目~)
*福信(?~663)・・・百済の武将 660年百済滅亡後も再興を図る
660年「或本」は福信が「唐の俘(虜)」を献上
661年「日本世記」は福信が「唐俘」106人を献上、近江国墾田へ
(「故今存注其決焉」撰者も不明らしく、
 脚注にしたので読者の皆さんが事実認定して後々決めてと。)
*日本世記・・・道顕(僧侶 高句麗からの渡来人)の著述書
663年福信が「唐俘の続守言ら」を送った
遡る事約30年前の何れかに「続守言」さんらは既に来倭。
因みに「続守言」さん、660年20歳とすると691年51歳に。 続く。

Ume

| | コメント (0)

2022年1月22日 (土)

南朝宋 倭国では呉国と 792

新コロナウイルス変異型のオミクロン株が蔓延している最中、
遅ればせながら、中途半端な気持ちで「賀正」。
今年も宜しくお願い致します。

それでは、昨年師走に困らせた「倭の五王」の件。
日本書紀の大泊瀬幼武天皇(雄略帝)の「南朝宋」関連について
抜き出してみます。

「(雄略帝六年《462年》)夏四月 呉國遣使貢獻 中略
 八年《464年》春二月 遣身狹村主青 桧隈民使博徳使於呉國
 中略
 《467年》秋七月 有從百濟國逃化來者 自稱名曰貴信
 又稱 貴信 呉國人也 中略
 十四年《470年》春正月丙寅朔戊寅 身狹村主青等共呉國使
 將呉所獻 手末才伎 漢織呉織 及 衣縫 兄媛弟媛等 泊於住吉津」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 雄略帝 P13の3行目~)
*呉國(国)・・・呉の呉音は「グ」、漢音は「ゴ」。
多分「グ」を「くれ」と聞こえたのでは思われますが・・・・・?
倭国は華南の中国王朝(首都建康=南京)を「くれのくに」と呼称。
又、呉国への拘りは
「呉太伯 太伯弟仲雍 皆周太王之子 而王季暦之兄也 中略
 寿夢立而呉始益大 称王 自太伯作呉 五世而武王克殷
 封其後為二 其一虞 在中国 其一呉 在夷蛮」
(史記 巻三十一 呉太伯世家 第一)
とあり、
「倭人在帯方東南大海中 依山島為国 地多山林 無良田 食海物
 旧有百余小国相接 至魏時 有三十国通好 戶有七万
 男子無大小 悉黥面文身 自謂太伯之後
 又言上古使詣中国 皆自稱大夫」
(晋書 巻九十七 列伝第六十七 四夷伝 )
魏と接触した倭人は呉国太伯の末裔と称した。この名残では?
(太伯の末裔と称した方は戦乱から逃れ、倭国に渡り稲作を伝授?)
*住吉津・・・住吉(現在の大阪市住吉区河口)の港
462年4月「呉国」遣使がお土産持参で訪問
464年「身狹村主青」と「桧隈民使博徳」を「呉国」へ派遣
467年「百濟國」からの逃亡者「貴信」は「呉国人」とも
470年「身狹村主青」等は「呉国(遣)使」と共に「呉国」が献上した
「手末才伎(機織り職人)」の
「漢織(あやはとり)」「呉織(くれはとり)」・・・絹錦・綾織物=綾絹
「衣縫(縫製職人)」の
「兄媛(えひめ)」「弟媛(おとひめ)」等と一緒に住吉津に停泊。
(「着物」は織り生地を縫えば出来上がり!)
一方、「宋書」では
462年3月「興」遣使献方物
ですから、「献方物」全く真逆になってしまいます。
更に「宋書」は「興」で「日本書紀」は「雄略帝」。
歴史研究家の皆さんは「武=雄略帝」で程、確定済みですので・・・・・。
 続く。

寒梅

| | コメント (0)

« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »