B.C.660年神武帝 橿原宮で即位 787
推古二十八年→620年に厩戸皇子らが
「すめらみことのふみ(天皇記)」編纂の際、
「かむやまといわれびこ」(神日本磐余彦→後の神武帝)を初代にし
(神日本磐余彦の設定は「日本書紀」撰述者やも知れません。)
「日本書紀」編集者らが
「讖緯説」に基づき「1260年遡る辛酉年」に設定したのは
十中八九、百済から伝わった情報からと思われます。
*1260年=干支周期60年×21
先週の「神武元年~推古八年=1260年」をご確認下さい。
確かに、推古九年→601年から1260年遡ると(601-1260=-659)
-659年はグレゴリオ暦ではB.C.660年になります。
《キリスト紀元グレゴリオ暦は-1年(B.C.1)→1年(A.D.1)で
0年が存在しない為なのです。(数の順序は-2 -1 0 1 2)
従ってB.C.660年は閏年ではなくB.C.661年が閏年になります。》
これに則り、「神日本磐余彦→後の神武帝」は
B.C.660年橿原宮で即位とされているのです。
これ以後、
帝名は淡海三船の漢風諡号表記、
年はキリスト紀元グレゴリオ暦(通称西暦)年を先行表記します。
「讖緯説」の大変革「辛酉年1260年(1320年)説」は展開しません。
興味のおありの方はご自身でお調べ下さいませ。
因みに601年+1260年=1861年にも大革命は生じていません。
但し、その時代の日本の為政者は901年以降の「辛酉年」に
縁起を担ぎ「改元」しています。
0901年 昌泰04年 → 延喜元年 菅原道真 大宰権帥に左遷
0961年 天徳05年 → 応和元年
1021年 寛仁05年 → 治安元年
1081年 承暦05年 → 永保元年
1141年 保延07年 → 永治元年
1201年 正治03年 → 建仁元年
1261年 文応02年 → 弘長元年
1321年 元応03年 → 元亨元年
1381年 天授07年 → 弘和元年(南朝)
1381年 康暦03年 → 永徳元年(北朝) 義満 後円融帝を園遊会に
1441年 永享13年 → 嘉吉元年 嘉吉の乱
1501年 明応10年 → 文亀元年
1561年 永禄04年 改元せず 川中島の戦い(4回目)
1621年 元和07年 改元せず
1681年 延宝09年 → 天和元年
1741年 元文06年 → 寛保元年 北海道の渡島半島に大津波
1801年 寛政13年 → 享和元年 高田屋嘉兵衛 国後航路の発見
1861年 万延02年 → 文久元年 ロシア軍艦対馬占領事件
「改元せず」は2回のみ、全く、平和そのものでは・・・・・。
アンチ道真派(藤原時平派)の「三善清行(847~919)」が
901年(辛酉年)1月「昌泰の変(道真左遷)」を利用、
「延喜」へ改元を進言し「讖緯(辛酉改元)説」の先鞭をつけた張本人。
それはさて置き、
辛酉年春正月庚辰朔 ⇒ 神武帝元年正月一日は
グレゴリオ暦換算するとB.C.660年2月11日に。
(「換暦」の和暦欄に「神武元年1月1日」と入力してみて下さい。)
この「2月11日」は
太陽暦への改暦年の翌年 明治七年の二月十一日(1874年2月11日)
から「紀元節(祝日)」となり1948年迄続行するも翌1949年は廃止、
やがて、1967年2月11日から「建国記念の日」として蘇るのです。
続く。
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