« B.C.660年神武帝 橿原宮で即位 787 | トップページ | 倭国の五王遣使 南朝宋へ訪問 789 »

2021年11月20日 (土)

400年初頭の東アジア模様 788

広開土王碑文「丁未(年)」を407年とした事から
「暦」についてくだくだ触れてしまいましたがお話しを元へ戻します。
でも、「暦」って、とても奥が深く、大切な事なのですよ!

それでは、「後燕と高句麗 仲良しに」からの続きから。
高句麗の好太王は412年に他界、諡は広開土王で領土を増加表現に。
413年に息子「長寿王《諡》(394~491在位413~491)」が継ぎます。
そして、華北の北魏の帝は2代目
拓跋嗣(明元帝)(392~423在位409~423)の時代。
一方、華南の東晋の帝は10代目
司馬徳宗(安帝)(382~418在位396~418)の時代。
実質は将軍の劉裕(363~422)が差配していました。
410年に劉裕は後燕から分かれ山東半島広固城を拠点としていた
「南燕(399~410)」を滅亡させました。
この状況を踏まえ

「(義熙九年《413年》)是歲 高句麗 倭国
 及 西南夷 銅頭大師並 献方物」
(晋書 巻十 帝紀第十 安帝 恭帝)
「高句麗王高璉(長寿王) 晋安帝義熙九年(413年)
 遣長史高翼奉表献赭白馬
 以璉為使持節 都督営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」
「義熙十二年(416年) 以百済王余映為使持節 都督百済諸軍事
 鎮東将軍 百済王 高祖(劉裕)践祚(420年) 進号鎮東大将軍」
(宋書 巻九十七 列伝第五十七 夷蛮)

高句麗 倭国 百済の各国は東晋朝へお土産持参でご挨拶。
高句麗(征東将軍 高句麗王等)・百済(鎮東将軍 百済王等)は
東晋朝から「権威称号」を頂戴しています。
又、百済王の余映を「日本書紀 巻第十 応神帝」では
「十六年(285年)春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之
 習諸典籍於王仁 莫不通達 故所謂王仁者 是書首等之始祖也
是歳 百濟阿花王薨 皇召直支王謂之曰
 汝返於國以嗣位 仍且賜東韓之地而遣之」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 応神帝 P36の11行目)
 又、285年は「天皇系図(宮内庁)日本書紀」でご確認下さい。)
直支(とき)王としています。
彼の父、阿花王(?~405在位392~405)は
405年に亡くなっています。
日本書紀のこの出来事は応神帝十六年=285年、
しかし、確定史実は405年。 405-285=120年に。
即ち、干支周期60年×2=120年の差が生じているのです。
(これは日本書紀編纂者の「1260年遡る辛酉年」企図の一環では?)
又、285年春二月に来倭された「王仁(わに)」さんの件は
中々前に進めませんのでここでは触れません。ご免なんしょ。 続く。

|

« B.C.660年神武帝 橿原宮で即位 787 | トップページ | 倭国の五王遣使 南朝宋へ訪問 789 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« B.C.660年神武帝 橿原宮で即位 787 | トップページ | 倭国の五王遣使 南朝宋へ訪問 789 »