推古帝九年=辛酉年 斑鳩宮造営 784
キリスト紀元は生誕年でも生誕翌年でもなかったのです。
この事に関しましては「キリスト紀元/西暦(世界史の窓)」に
詳しく説明されていますのでご確認下さい。
とは云え、キリスト紀元に「突っ込み」を入れられません。
皇紀(=神武天皇御即位紀元)は
「日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇」の
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳爲天皇元年」
(国立国会図書館 電子図書館蔵書 日本書紀 神武帝P19の10行目)
の記述を採用しているからです。
辛酉年春正月庚辰朔 ⇒ 神武帝元年正月一日
日本書紀は編年体です。
*編年体・・・歴史書を年月順で記述する方法 ⇔ 紀伝体
著者は各帝の事績・生誕・即位年などを
即位紀年、干支・太歳紀年で記述しています。
*太歳
木星の異名(木星の鏡像となる仮想惑星)。
木星は一二年の周期で巡行したので、(木星の公転周期は11.862年)
十二支の運行と関連して考えられ、「太歳〇〇」の形で干支(かんし)
によって歳を記す暦法が行なわれるようになった。
「日本書紀」では、歴代の天皇の即位元年の記事の終わりに
「是年也、太歳〇〇」と記す(若干の異例あり)。
(日本国語大辞典 小学館)
因みに、「(推古帝)十二年 春正月戊戌朔 始賜冠位於諸臣」の様に。
この(推古帝)十二年が甲子年と後の政治要略が指摘しています。
甲子年から遡る3年前が辛酉年になります。
「日本の暦 六十干支」にてご確認下さい。
この推古帝九年が辛酉年、神武帝元年(即位年)も辛酉年。
辛酉年に異変が起こる・多いとする予言(讖緯説の辛酉革命)思想。
辛酉革命の「革命」は仏革命の「(暴力)革命」とは全く異なり
「天命により王朝を革(あらた)める」事。
*天命・・・古代中国思想で自然・宇宙神の思し召しで天子になる事
(但し、天子に「徳」が失せると交代の思し召し、従って、非科学的。
王朝交代の方便として考案・利用された思想。)
(推古帝)九年=辛酉年ですので大変な何かが起こった?
「九年春二月 皇太子(厩戸皇子)初興宮室于斑鳩
三月甲申朔戊子遣大伴連齧于高麗 遺坂本臣糠手于百濟
以詔之曰 急救任那
夏五月 天皇居于耳梨行宮 是時大雨 河水漂蕩 満于宮庭
秋九月辛巳朔戊子 新羅之間諜者迦摩多到對馬 則捕以貢之
流于上野 冬十一月庚辰朔甲申 議攻新羅」
(国立国会図書館 電子図書館蔵書 日本書紀 推古帝P6の4行目)
特に大異変は生じていません。
強いて上げれば、厩戸皇子が斑鳩宮を「興(おこ)」したくらい。
続く。
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