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2021年9月11日 (土)

苻訓英と慕容煕 仲良く天国へ 778

「苻訓英」さんと慕容熙との幸せな時空はいつまでも続きません。
「承華殿」を建造した年、407年に栄華を極めた彼女は他界します。

「苻氏(苻訓英)死 (慕容)熙悲号躃踴 若喪考妣
 擁其屍而撫之曰 体已就冷 命遂断矣
 於是僵僕気絶 久而乃蘇 大斂既訖 復啓其棺而与交接
 服斬縗 食粥」
*縗(サイ)・・・喪服
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容熙)

慕容煕は彼女の遺骸に優しく触れ
「何と冷たい体なんだ、亡くなってしまったのか」と。
この状況に慕容煕は気を失う始末。気が戻ると、
おもむろに彼女の棺を開け中に入り「交接(抱擁)」したと。
当然、食は進みません。
これだけ慕容煕に愛された「苻訓英」さんはさぞかし・・・・・。
彼女の死から間もなくクーデターを起こり慕容煕は殺害されます。
これにて慕容煕は彼女の後を追った展開に。
後燕4代帝として至福の6年間を過ごし23歳で生涯を閉じたのです。
きっと以てお二人は仲良く天国に行かれた思われます。
ところで、これ迄に中国の「美人・美女」は2名紹介しています。
一途最初は「虞美人」さん。
「項王(項羽)軍壁垓下 兵少食尽 漢軍及諸侯兵囲之数重
 夜聞漢軍四面皆楚歌
 項王乃大驚曰 漢皆已得楚乎 是何楚人之多也
 項王則夜起 飲帳中 有美人名虞 常幸従 駿馬名騅 常騎之」
(史記 巻七 項羽本紀第七)
有名な「四面楚歌」の記述後に「虞」と云う名の「美人」がいると。

二番目は「王昭君=寧胡閼氏(ネイコエンシ)」さん。
「竟寧元年(B.C.33)春正月 匈奴呼韓邪単于来朝
 詔曰 中略 其改元為竟寧 賜単于待詔掖庭王檣為閼氏」
*閼氏・・・匈奴単于の奥様(后妃)の称号
(〈前〉漢書 巻九 元帝紀 第九)
「王昭君号寧胡閼氏 生一男伊屠智牙師 為右日逐王
 呼韓邪立二十八年 建始二年(B.C.31)死」
(〈前〉漢書 巻九十四下 匈奴伝 第六十四下)
「元帝時 以良家子选入掖庭 時 呼韓邪来朝
 帝勅以宮女五人賜之 (王)昭君入宮数歳 不得見御
 積悲怨 乃請掖庭令求行 呼韓邪臨辞大会 帝召五女以示之
 昭君豊容靚飾 光明漢宮 顧景裴回 竦動左右
 帝見大驚 意欲留之 而難于失信 遂与匈奴」
*王檣=・王昭君 *掖庭・・・後宮 *靚・・・麗しく美しい
(後漢書 巻八十八 南匈奴列伝 第七十九)
王昭君は匈奴人と漢人を調和されたお方。
後漢書に依ると
呼韓邪単于は王昭君のみかと思いきや、
ちゃっかり元帝から後宮女性五人も頂戴しているんです。
又、元帝は後宮にいらした王昭君を何年もほったらかしにしていたと。
彼女はそれを「悲怨」、自ら匈奴呼韓邪単于の元へ行くと申言したと。
更に、元帝は「豊容靚飾」の王昭君を初めて見てびっくらこ。
匈奴の地へ行かせる事を躊躇(ためら)ったとか。元帝さん残念無念。
豊容靚飾・・・優美で豊満容姿をお持ちな麗しい王昭君さんかしら
そして、「苻訓英」さんは晴れて三番目に。
因みに「献帝の母(王栄)」さん。
「孝献皇帝諱協 霊帝中子也 母王美人 為何皇后所害」
(後漢書 巻八十八 南匈奴列伝 第七十九)
こちらの「母王美人」の美人は女官名になります。
後漢時代は上から皇后 貴人 美人 宮人 采女の順列に。 続く。

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