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2021年9月18日 (土)

後燕と高句麗 仲良しに 779

ところで407年慕容煕を死に追いやった首謀者は「馮跋(フウバツ)」。
彼の出自は漢人とされていますが
かの時代既に「純漢人」は存在しないことも事実(史実)です。
彼は後燕2代帝慕容宝の養子「慕容雲」を次の帝に推します。

「慕容雲 字子雨 (慕容)宝之養子也 祖父和 高句麗之支庶
 自雲高陽氏之苗裔 故以高為氏焉 雲沈深有局量 厚重希言
 時人咸以為愚 唯馮跋奇其志度而友之 宝之為太子
 雲以武芸給事侍東宮 拝侍御郎 襲敗慕容会軍
 宝子之 賜姓慕容氏 封夕陽公 中略
 (馮)跋等強之 雲遂即天王位 復姓高氏 大赦境內殊死以下
 改元曰正始 国号大燕」
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容雲)
高句麗軍は慕容皝軍との戦いで大敗後、
前燕の元に下った高句麗王族の支族末裔。
彼は慕容宝に仕え戦功を上げ、慕容宝の養子になり、「慕容」姓を
貰い、夕陽公となっていました。
馮跋の推挙により帝になった慕容雲は姓を以前の「高雲」に戻し、
国名を「大燕」とします。
この時点の高句麗王は好太王、あの広開土王碑の主人公。
従って、後燕と高句麗とは和解、敵対関係が解消されたのです。
高句麗は西方背後の脅威がなくなり、東北方面に侵攻が楽に。
広開土王碑の文字が不鮮明・欠落している事から
全貌は解明は不可能です。
但し、高句麗は後燕と和睦後、「十七年丁未(407年)」に
五万の高句麗軍が半島を南下、合戦をしたと記載されていると。
広開土王碑拓本 第III面 3行目中央 お茶の水女子大学
 「十七年丁未◯◯歩騎五◯・・・・・」がギリ確認可能)
「十七年丁未」の「十七年」は好太王が高句麗王になった年から
17年目、「丁未(テイビ=ひのとひつじ)」は干支歴の「六十干支」
44番目(1番目は「甲子(コウシ・カッシ=きのえね)」)。
「干支紀年法」により407年に当たる。
後漢時代の85年にそれ迄使用されていた「三統暦(太初暦の改変)」
を改暦(「後漢四分暦」)した際、
「超辰法」を廃止(木星《太歳》位置の太歳紀年法)、
「六十干支」(=六十進法)を順繰りにする「干支紀年法」が採用され、
近年、否、今日迄に至るのです。尚、暦関連は来週に。 続く。

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