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2021年9月25日 (土)

即位・元号・干支紀年法等 780

先週、広開土王碑文「丁未(年)」を干支紀年法から407年としました。
今となっては昔となりますがこの件は以前にも触れました。
辛卯年(391年)好太王即位
旧暦・十干十二支・陰陽五行説」にてご確認下さい。
今回は観点を変えて紹介してみます。

*中国史書で記述された年表記箇所

「秦王政立二十六年 初并天下為三十六郡 号為始皇帝」
(史記 巻五 秦本紀 第五)

「蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉 中略 中平元年」
(後漢書 巻七十一 皇甫嵩朱儁列伝 第六十一)

「文皇帝諱丕(=曹丕) 字子桓 武帝太子也 中平四年冬 生于譙」
(三国志 巻二 文帝紀)

秦王政二十六年・・・秦の始皇帝が中国を統一した年 ⇒ 即位紀年法
甲子・・・黄巾の乱の年 ⇒ 干支紀年法
中平四年・・・曹丕の生まれた年 ⇒ 元号(=年号)紀年法

即位紀年法は漢朝武帝の「元号」制定以前、以後は元号紀年法表記。
即位紀年法は即位年を元年、元号紀年法は元号制定年が元年。
即位紀年法は即位者が亡くなると消滅、
元号紀年法は改元、及び、即位者他界で終了する有限・積年紀年法。
一方、干支紀年法は60年に1回巡ってくる循環紀年法。
(故に60年経過にて「還暦」って。)
ここで、「丁未(年)」の件。
中平元年は「184年」と規定されています。
従って、「甲子(年)」=「184年」に。
上を所与にすると、「六十干支」から「甲子=1年」・「丁未=44年」
甲子年=184年 → 244年 → 304年 → 364年 → 424年
丁未年=227年 → 287年 → 347年 → 407年 → 467年
前後関係から広開土王碑文「丁未」は「407年」に。
又、この「407年」は「キリスト紀元」を元とした通年紀年法です。 
 続く。

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2021年9月18日 (土)

後燕と高句麗 仲良しに 779

ところで407年慕容煕を死に追いやった首謀者は「馮跋(フウバツ)」。
彼の出自は漢人とされていますが
かの時代既に「純漢人」は存在しないことも事実(史実)です。
彼は後燕2代帝慕容宝の養子「慕容雲」を次の帝に推します。

「慕容雲 字子雨 (慕容)宝之養子也 祖父和 高句麗之支庶
 自雲高陽氏之苗裔 故以高為氏焉 雲沈深有局量 厚重希言
 時人咸以為愚 唯馮跋奇其志度而友之 宝之為太子
 雲以武芸給事侍東宮 拝侍御郎 襲敗慕容会軍
 宝子之 賜姓慕容氏 封夕陽公 中略
 (馮)跋等強之 雲遂即天王位 復姓高氏 大赦境內殊死以下
 改元曰正始 国号大燕」
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容雲)
高句麗軍は慕容皝軍との戦いで大敗後、
前燕の元に下った高句麗王族の支族末裔。
彼は慕容宝に仕え戦功を上げ、慕容宝の養子になり、「慕容」姓を
貰い、夕陽公となっていました。
馮跋の推挙により帝になった慕容雲は姓を以前の「高雲」に戻し、
国名を「大燕」とします。
この時点の高句麗王は好太王、あの広開土王碑の主人公。
従って、後燕と高句麗とは和解、敵対関係が解消されたのです。
高句麗は西方背後の脅威がなくなり、東北方面に侵攻が楽に。
広開土王碑の文字が不鮮明・欠落している事から
全貌は解明は不可能です。
但し、高句麗は後燕と和睦後、「十七年丁未(407年)」に
五万の高句麗軍が半島を南下、合戦をしたと記載されていると。
広開土王碑拓本 第III面 3行目中央 お茶の水女子大学
 「十七年丁未◯◯歩騎五◯・・・・・」がギリ確認可能)
「十七年丁未」の「十七年」は好太王が高句麗王になった年から
17年目、「丁未(テイビ=ひのとひつじ)」は干支歴の「六十干支」
44番目(1番目は「甲子(コウシ・カッシ=きのえね)」)。
「干支紀年法」により407年に当たる。
後漢時代の85年にそれ迄使用されていた「三統暦(太初暦の改変)」
を改暦(「後漢四分暦」)した際、
「超辰法」を廃止(木星《太歳》位置の太歳紀年法)、
「六十干支」(=六十進法)を順繰りにする「干支紀年法」が採用され、
近年、否、今日迄に至るのです。尚、暦関連は来週に。 続く。

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2021年9月11日 (土)

苻訓英と慕容煕 仲良く天国へ 778

「苻訓英」さんと慕容熙との幸せな時空はいつまでも続きません。
「承華殿」を建造した年、407年に栄華を極めた彼女は他界します。

「苻氏(苻訓英)死 (慕容)熙悲号躃踴 若喪考妣
 擁其屍而撫之曰 体已就冷 命遂断矣
 於是僵僕気絶 久而乃蘇 大斂既訖 復啓其棺而与交接
 服斬縗 食粥」
*縗(サイ)・・・喪服
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容熙)

慕容煕は彼女の遺骸に優しく触れ
「何と冷たい体なんだ、亡くなってしまったのか」と。
この状況に慕容煕は気を失う始末。気が戻ると、
おもむろに彼女の棺を開け中に入り「交接(抱擁)」したと。
当然、食は進みません。
これだけ慕容煕に愛された「苻訓英」さんはさぞかし・・・・・。
彼女の死から間もなくクーデターを起こり慕容煕は殺害されます。
これにて慕容煕は彼女の後を追った展開に。
後燕4代帝として至福の6年間を過ごし23歳で生涯を閉じたのです。
きっと以てお二人は仲良く天国に行かれた思われます。
ところで、これ迄に中国の「美人・美女」は2名紹介しています。
一途最初は「虞美人」さん。
「項王(項羽)軍壁垓下 兵少食尽 漢軍及諸侯兵囲之数重
 夜聞漢軍四面皆楚歌
 項王乃大驚曰 漢皆已得楚乎 是何楚人之多也
 項王則夜起 飲帳中 有美人名虞 常幸従 駿馬名騅 常騎之」
(史記 巻七 項羽本紀第七)
有名な「四面楚歌」の記述後に「虞」と云う名の「美人」がいると。

二番目は「王昭君=寧胡閼氏(ネイコエンシ)」さん。
「竟寧元年(B.C.33)春正月 匈奴呼韓邪単于来朝
 詔曰 中略 其改元為竟寧 賜単于待詔掖庭王檣為閼氏」
*閼氏・・・匈奴単于の奥様(后妃)の称号
(〈前〉漢書 巻九 元帝紀 第九)
「王昭君号寧胡閼氏 生一男伊屠智牙師 為右日逐王
 呼韓邪立二十八年 建始二年(B.C.31)死」
(〈前〉漢書 巻九十四下 匈奴伝 第六十四下)
「元帝時 以良家子选入掖庭 時 呼韓邪来朝
 帝勅以宮女五人賜之 (王)昭君入宮数歳 不得見御
 積悲怨 乃請掖庭令求行 呼韓邪臨辞大会 帝召五女以示之
 昭君豊容靚飾 光明漢宮 顧景裴回 竦動左右
 帝見大驚 意欲留之 而難于失信 遂与匈奴」
*王檣=・王昭君 *掖庭・・・後宮 *靚・・・麗しく美しい
(後漢書 巻八十八 南匈奴列伝 第七十九)
王昭君は匈奴人と漢人を調和されたお方。
後漢書に依ると
呼韓邪単于は王昭君のみかと思いきや、
ちゃっかり元帝から後宮女性五人も頂戴しているんです。
又、元帝は後宮にいらした王昭君を何年もほったらかしにしていたと。
彼女はそれを「悲怨」、自ら匈奴呼韓邪単于の元へ行くと申言したと。
更に、元帝は「豊容靚飾」の王昭君を初めて見てびっくらこ。
匈奴の地へ行かせる事を躊躇(ためら)ったとか。元帝さん残念無念。
豊容靚飾・・・優美で豊満容姿をお持ちな麗しい王昭君さんかしら
そして、「苻訓英」さんは晴れて三番目に。
因みに「献帝の母(王栄)」さん。
「孝献皇帝諱協 霊帝中子也 母王美人 為何皇后所害」
(後漢書 巻八十八 南匈奴列伝 第七十九)
こちらの「母王美人」の美人は女官名になります。
後漢時代は上から皇后 貴人 美人 宮人 采女の順列に。 続く。

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2021年9月 4日 (土)

高句麗遼東城 不陥落原因 777

「会高句麗寇燕郡 殺略百余人 (慕容)熙伐高句麗 以苻氏従
 為沖車地道以攻遼東
 (慕容)熙曰
 待剗平寇城 朕当与後乗輦而入 不聴将士先登
 於是城内厳備 攻之不能下 会大雨雪 士卒多死 乃引帰」
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容熙)

この記述箇所が先々週紹介しました
405年 後燕軍 高句麗の遼東城(現在の遼寧省遼陽市)を攻撃するも
陥落まで至らず撤退(晋書 慕容熙)
に当たります。
遼東城が落ちなかった理由は慕容熙の我が儘なんです。
高句麗征伐に何と皇后、「苻訓英」さんをお連れになっていたのです。
まさにに城が落ちようとする間際、彼は奥様と「輦(=輿)」に乗り入城
するので暫し待機(攻撃中止)するよう「将士」に命じます。
しかし、この間高句麗軍は城の防備を固める事ができ
後燕軍の攻撃を凌げたのです。
やがて、天候にも恵まれず「大雨雪」になり兵士が多数死亡、
後燕軍は引き揚げる他なかったのです。
慕容熙は一時も奥様と離れる事ができず、
彼女に城陥落現場を見せる事で「素敵」と思われたかったのでしょう。
殿方には何て酷い男だとお感じになるかも知れませんが
女性にとってはこれ程幸せな事はありませんことよ・・・・・。
前年にお姉さんが病死し、お二人とも寂しい思いをしていますので
(慕容熙はお姉さんに皇后位をプレゼントしています。)
お二人はひとしおだったやも。
一方、高句麗にとっては「苻訓英」さん、様々です。
負け戦を彼女が救って下さったのですから。
神様・仏様・「苻訓英」様に。
慕容熙は更なる彼女へプレゼント攻勢に。

「為苻氏起承華殿 高承光一倍 負土於北門 土与穀同価
 典軍杜静載棺詣闕 上書極諫 (慕容)熙大怒 斬之」 (同上)

新たな絢爛極まる宮殿「承華殿」の建造、これにより
北門に大量の土砂が必要になり土砂価が穀物価と同価になったとか。
又、財政悪化を来す事必定から臣下が諫言すると
慕容熙は激高、切り捨てたとか。 「愛は強し」? 続く。

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