北魏・後燕・高句麗・百済・新羅・倭国の攻防 775
華南地域を根城にした東晋朝が政争で明け暮れていた時、
華東北地域・朝鮮半島地区でも激しく動いていたのです。
391年 高句麗 好太王(=広開土王 374~413在391~413)即位
「而倭以辛卯年(391年)来渡海破百残◯◯◯羅以為臣民」
(広開土王碑) 倭国軍が渡海し百済・新羅を破ったとか
395年 参合陂の戦いで後燕、慕容宝軍が北魏軍に破れる
*参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東地域)
396年 慕容垂が他界し、後燕は息子、慕容宝が継ぐ 後燕の弱体化
慕容宝、好太王に遼東帯方二国王の称号を与える
好太王は自ら水軍を率いて百済へ侵攻、人質等を獲得
397年 北魏軍、後燕の都、中山(現在の河北省定州市)を襲撃占拠
慕容宝は後退、都を龍城(現在の中国遼寧省朝陽市)へ
倭国は百済へ救援軍を派遣(日本書紀 巻第十)
398年 慕容宝殺害され息子、慕容盛が後燕を再興
慕容宝叔父、慕容徳が滑台で自立、燕王を称し南燕を建てる
*慕容盛(373~401在398~401)
*慕容徳(336~405在398~405)・・・父は慕容皝
*滑台?・・・現在の河南省安陽市滑県
399年 百済は高句麗との誓いを破棄、倭国と好を結んだ為、好太王軍
は平壌まで出陣(百済の都は漢城〈現在のソウル市〉)、
そこへ新羅の使者が訪れ救援要請(新羅は倭国軍支配下状態)
(広開土王碑)
慕容徳は広固(現在の山東省青州市)に遷都
400年 好太王軍平壌から韓半島を南下、新羅城へ 倭国軍は退避
(広開土王碑)
後燕軍、手薄な高句麗を攻撃、遼東(遼河の東側)地区
蘇子河流域の新・南蘇城を奪還
401年 慕容盛が暗殺され、丁皇太后が慕容熙(キ)を擁立
*慕容熙(385~407在401~407)慕容垂の末子 慕容宝は兄
402年 高句麗 後燕の宿軍城(現在の遼寧省錦州市北鎮市)を陥落
404年 高句麗軍と後燕軍、国境にて戦闘
この期に倭国軍 舟を連ねて侵攻上陸、平壌近郊にて衝突
(広開土王碑)
405年 後燕軍 高句麗の遼東城(現在の遼寧省遼陽市)を攻撃するも
陥落まで至らず撤退(晋書 慕容熙)
407年 後燕 龍城にてクーデター 漢人将軍馮跋が慕容熙を殺害、
慕容雲(=高雲)を擁立
基本的には北魏・後燕・高句麗との攻防、及び、後燕内部分裂状況に
百済・新羅・倭国が絡んでいる構造になります。 続く。
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