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2021年8月28日 (土)

慕容熙 奥様は絶世の美女姉妹 776

先週紹介した
慕容垂1(326~396在384~396)の末っ子、
慕容熙4(385~407在401~407)は慕容垂59歳時のお子さんです。
慕容盛3(373~401在398~401)の父は
慕容宝2(355~398在396~398)で母は「丁」さん。
慕容盛3(29歳)が暗殺された際、彼の息子慕容定が若年だった為
群臣は慕容宝2の息子慕容元を推すものの、
慕容宝2の奥様「丁」さんが慕容熙4を推し彼が帝位を継ぐ事に。
(群臣より前皇后の推しが強し。この時点で「丁」さんは丁皇太后に)
「丁」さんと慕容熙は懇(ねんご)ろ(=仲睦い)関係だった感じ?
ところが、慕容熙は絶世の美女姉妹とも懇ろのお付き合い。
その美しい女性は姉「苻娀娥(フシュウガ)」さんと妹「苻訓英」さん。
彼女らは前秦苻堅の従弟苻謨のお嬢さん達。
慕容熙はお姉さんより妹をよりお好みだった模様。
妹「苻訓英」さんは皇后(帝の嫡妻《=正妻》№1)で
姉「苻娀娥」さんは昭儀(帝の側室で皇后に次ぐ№2)から。

「大築龍騰苑 広袤十余里 役徒二万人 起景雲山于苑内
 基広五百歩 峰高十七丈 又起逍遙宮 甘露殿 連房数百 観閣相交
 鑿天河渠 引水入宮
 又為其昭儀苻氏鑿曲光海 清涼池
 季夏盛暑 士卒不得休息 暍死者太半」
(晋書 巻一百二十四 載記第二十四 慕容熙)

お二人とご自分の為に?広大で豪華絢爛な?「龍騰苑」を作庭。
この庭園の広さは「十余里」、工事請負関係者「二万人」。 
(1里=1,800尺 この時代1尺=24.5cm 10里=4,410m 中国の度量衡
約5km四方の面積のお庭。
更にこのお庭の中には「景雲山」と命名された築山まで。
「基広五百歩 峰高十七丈」(1歩=5尺 1丈=10尺)
612.5m四方の裾野を誇り、標高41.65mの名山?
更にこの庭園内部に「逍遙宮」・「甘露殿」と云う宮殿、
何と部屋数「数百」に及ぶ豪華さだったとか。
更にさらに、宮殿に水を引き込み「天河渠」と云う池泉までも。
又、お姉さんが池がお好きだったらしく彼女用に「曲光海」・「清涼池」
も作りプレゼントしたとか。
但し、この庭園工事は真夏日に着工、大急ぎの作庭の為、休息無し、
工事従事者の大半は熱中症でお亡くなりになったと。
プレゼントされたお二人はとってもお幸せだった思われますが
一方、供給サイドは大変な財政・人的負担が・・・・・。 続く。

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2021年8月21日 (土)

北魏・後燕・高句麗・百済・新羅・倭国の攻防 775

華南地域を根城にした東晋朝が政争で明け暮れていた時、
華東北地域・朝鮮半島地区でも激しく動いていたのです。

391年 高句麗 好太王(=広開土王 374~413在391~413)即位
     「而倭以辛卯年(391年)来渡海破百残◯◯◯羅以為臣民」
     (広開土王碑) 倭国軍が渡海し百済・新羅を破ったとか
395年 参合陂の戦いで後燕、慕容宝軍が北魏軍に破れる
     *参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東地域)
396年 慕容垂が他界し、後燕は息子、慕容宝が継ぐ 後燕の弱体化
     慕容宝、好太王に遼東帯方二国王の称号を与える
     好太王は自ら水軍を率いて百済へ侵攻、人質等を獲得
397年 北魏軍、後燕の都、中山(現在の河北省定州市)を襲撃占拠
     慕容宝は後退、都を龍城(現在の中国遼寧省朝陽市)へ
     倭国は百済へ救援軍を派遣(日本書紀 巻第十)
398年 慕容宝殺害され息子、慕容盛が後燕を再興
     慕容宝叔父、慕容徳が滑台で自立、燕王を称し南燕を建てる
     *慕容盛(373~401在398~401)
     *慕容徳(336~405在398~405)・・・父は慕容皝
     *滑台?・・・現在の河南省安陽市滑県
399年 百済は高句麗との誓いを破棄、倭国と好を結んだ為、好太王軍
     は平壌まで出陣(百済の都は漢城〈現在のソウル市〉)、
     そこへ新羅の使者が訪れ救援要請(新羅は倭国軍支配下状態)
     (広開土王碑)
     慕容徳は広固(現在の山東省青州市)に遷都
400年 好太王軍平壌から韓半島を南下、新羅城へ 倭国軍は退避
     (広開土王碑)
     後燕軍、手薄な高句麗を攻撃、遼東(遼河の東側)地区
     蘇子河流域の新・南蘇城を奪還
401年 慕容盛が暗殺され、丁皇太后が慕容熙(キ)を擁立
     *慕容熙(385~407在401~407)慕容垂の末子 慕容宝は兄
402年 高句麗 後燕の宿軍城(現在の遼寧省錦州市北鎮市)を陥落
404年 高句麗軍と後燕軍、国境にて戦闘
     この期に倭国軍 舟を連ねて侵攻上陸、平壌近郊にて衝突
     (広開土王碑)
405年 後燕軍 高句麗の遼東城(現在の遼寧省遼陽市)を攻撃するも
     陥落まで至らず撤退(晋書 慕容熙)
407年 後燕 龍城にてクーデター 漢人将軍馮跋が慕容熙を殺害、
     慕容雲(=高雲)を擁立

基本的には北魏・後燕・高句麗との攻防、及び、後燕内部分裂状況に
百済・新羅・倭国が絡んでいる構造になります。 続く。

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