桓玄 帝位簒奪 劉裕を厚遇 773
「(402年)孫恩自奔敗之後 徒旅漸散 惧生見獲 乃於臨海投水死
余衆推(孫)恩妹夫盧循為主」
*臨海・・・現在の浙江省台州市
(宋書 巻一 本紀第一 武帝上 以後同)
399年/11月の起こした「孫恩の乱」は最終的に402年孫恩が海に身を
投じ水死する事で一件落着。但し、孫恩の死後、孫恩の妹の夫、
盧循(ロジュン)がこの妖賊の頭目に推され反乱は以後も続きます。
この混乱に乗じて帝位簒奪をしたお方が「桓玄」。
「(403年)桓玄為楚王 将謀篡盗 中略
十二月 桓玄篡帝位 遷天子於尋陽 桓脩入朝
高祖従至京邑 (桓)玄見高祖 謂司徒王謐曰
昨見劉裕 風骨不恒 蓋人傑也
毎遊集 輙引接慇懃 贈賜甚厚 高祖愈悪之
或説(桓)玄曰
劉裕龍行虎歩 視瞻不凡 恐不為人下 宜蚤為其所
(桓)玄曰
我方欲平蕩中原 非劉裕莫可付以大事」
*桓玄(369~404)・・・東晋重臣、桓温(312~373)の息子
*尋陽・・・現在の江西省九江市
*桓脩(?~404)・・・桓温の弟 桓沖(328~384)の息子
*王謐・・・琅邪王司馬睿に仕え共に「建康(南京)」へ赴き、
東晋朝宰相、王導(276~339)の孫
尚、書聖の王羲之(303~361)は王導の従甥
*中原・・・黄河中下流域の平原一体
402年守備名目で首都、建康(=南京)を制圧、この際、
劉裕の上官、劉牢之は桓玄に与しよう目論みます。
劉裕らはこれを拒みますが劉牢之は桓玄の軍門に降る選択。
後、日和った劉牢之は後悔、再起を謀る為、劉裕を誘います。
しかし、劉裕はきっぱりお断り、劉牢之は悲嘆に暮れ自殺へ。(晋書)
翌年、桓玄はまんまと帝位に着いてしますのです。
上官を失った劉裕はやむなく桓玄の配下となり建康に。
その勇士を観た桓玄。王謐は劉裕をただ者でないと認識。
桓玄は劉裕を度々食事に招き、厚く持てなしたとか。
又、桓玄は劉裕を「中原」征圧に欠くべからず人材とも考えていたと。
続く。
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