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2021年7月24日 (土)

天子(司馬徳宗)復位 劉裕褒美 774

「三年(403年)二月己丑朔 乙卯 高祖託以遊猟
 与無忌等收集義徒 凡同謀何無忌 中略
 義軍初剋京城 (桓)脩司馬刁弘率文武佐吏来赴
 高祖登城謂之曰
 郭江州已奉乗輿反正於尋陽 我等並被密詔 誅除逆党 同会今日
 賊(桓)玄之首 已当梟於大航矣 諸君非大晋之臣乎 今来欲何為」
*何無忌(カムキ ?~410)・・・東晋の武将
*郭江州・・・江州刺史の郭昶之
 (宋書 巻一 本紀第一 武帝上 以後同)

劉裕は桓玄打倒のため「義徒」を参集、建康城へ乗り込み、情宣・檄
「江州刺史 郭昶之は已に東晋皇帝を奉じ尋陽に戻った。
 我等は東晋皇帝の密詔を受け、桓玄ら逆賊を討つ為参じた。
 諸君は大晋の臣ではないか。何を欲してここにいるのだ」と。

「(桓)玄既還荊郢 大聚兵衆 召水軍造楼船 器械 率衆二万
 挟天子発江陵 浮江東下 中略 
 益州督護馮遷斬(桓)玄首 中略
 義熙元年(405年)正月 (劉)毅等至江津 破桓謙 桓振
 江陵平 天子反正 三月 天子至自江陵」
*荊・・・楚の異称
*郢・・・現在の湖北省荊州市
*江陵・・・現在の湖北省荊州市江陵県
*護馮(ゴヒョウ)・・・東晋の武将
*劉毅(リュウキ ?~412)・・・東晋の武将
*江津(コウシン)・・・現在の重慶市
*桓謙・・・桓玄の息子 *桓振・・・桓謙の甥

この状況に桓玄らは天子(司馬徳宗=東晋10代帝)を伴い、江陵へ
脱出、桓玄は最終的に斬首された。
405年1月には劉毅らが桓謙・桓振を破り、天子を奪還し復位に。
劉裕は403年に決起、東晋首都、建康奪還時点で
「於是推高祖為 使持節 都督 揚 徐 兗 予 青 幽 并八州諸軍事
 領軍将軍 徐州刺史」となり
天使復位後405年3月には劉裕の貢献に対し帝より
「乃改授 都督 荊 司 梁 益 寧 雍 涼 七州 并前十六州諸軍事
 本官如故 於是受命解青州 加領兗州刺史」を賜ったと。 続く。

一年遅れの東京五輪2020、本日より、暫し夏休みを頂きます。
それでは又。

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2021年7月17日 (土)

桓玄 帝位簒奪 劉裕を厚遇 773

「(402年)孫恩自奔敗之後 徒旅漸散 惧生見獲 乃於臨海投水死
 余衆推(孫)恩妹夫盧循為主」
*臨海・・・現在の浙江省台州市
 (宋書 巻一 本紀第一 武帝上 以後同)

399年/11月の起こした「孫恩の乱」は最終的に402年孫恩が海に身を
投じ水死する事で一件落着。但し、孫恩の死後、孫恩の妹の夫、
盧循(ロジュン)がこの妖賊の頭目に推され反乱は以後も続きます。
この混乱に乗じて帝位簒奪をしたお方が「桓玄」。

「(403年)桓玄為楚王 将謀篡盗 中略
 十二月 桓玄篡帝位 遷天子於尋陽 桓脩入朝
 高祖従至京邑 (桓)玄見高祖 謂司徒王謐曰
 昨見劉裕 風骨不恒 蓋人傑也
 毎遊集 輙引接慇懃 贈賜甚厚 高祖愈悪之
 或説(桓)玄曰
 劉裕龍行虎歩 視瞻不凡 恐不為人下 宜蚤為其所
 (桓)玄曰
 我方欲平蕩中原 非劉裕莫可付以大事」

*桓玄(369~404)・・・東晋重臣、桓温(312~373)の息子
*尋陽・・・現在の江西省九江市
*桓脩(?~404)・・・桓温の弟 桓沖(328~384)の息子
*王謐・・・琅邪王司馬睿に仕え共に「建康(南京)」へ赴き、
        東晋朝宰相、王導(276~339)の孫
            尚、書聖の王羲之(303~361)は王導の従甥
*中原・・・黄河中下流域の平原一体

402年守備名目で首都、建康(=南京)を制圧、この際、
劉裕の上官、劉牢之は桓玄に与しよう目論みます。
劉裕らはこれを拒みますが劉牢之は桓玄の軍門に降る選択。
後、日和った劉牢之は後悔、再起を謀る為、劉裕を誘います。
しかし、劉裕はきっぱりお断り、劉牢之は悲嘆に暮れ自殺へ。(晋書)
翌年、桓玄はまんまと帝位に着いてしますのです。
上官を失った劉裕はやむなく桓玄の配下となり建康に。
その勇士を観た桓玄。王謐は劉裕をただ者でないと認識。
桓玄は劉裕を度々食事に招き、厚く持てなしたとか。
又、桓玄は劉裕を「中原」征圧に欠くべからず人材とも考えていたと。
 続く。

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2021年7月10日 (土)

劉裕 妖賊孫恩の乱に勝利 772

先週紹介した
「晋書(撰648年 唐)《晋265~420》」と
「宋書(撰488年? 斉)《宋420~479》」は
「後漢書(撰432年? 宋)《後漢25~220》」と
「三国志(撰280年 晋)《魏蜀呉220~265》」の時系列と同じ。
従って「三国志」、及び、「宋書」はより史実を脚色されていないと
云われる由縁です。
それでは今後は「宋書」を軸として展開します。

「高祖武皇帝諱裕 字徳輿 小名寄奴 彭城県綏輿里人
 漢高帝弟楚元王交之後也 中略
 高祖以晋哀帝興寧元年(363年)歳次癸亥三月壬寅夜生
 及長 身長七尺六寸 風骨奇特
 家貧 有大志 不治廉隅 事継母以孝謹称」
*彭城県・・・現在の江蘇省徐州市
 (宋書 巻一 本紀第一 武帝上)
「劉懐粛 彭城人 高祖従母兄也 家世貧窶 而躬耕好学 中略
 初 高祖産而皇妣殂 孝皇帝貧薄 無由得乳人 議欲不舉高祖
 高祖従母生懐敬 未期 乃断懐敬乳 而自養高祖 高祖以旧恩
 懐敬累見寵授 至会稽太守 尚書 金紫光禄大夫」
*劉懐粛(?~407)・・・劉裕の母方の従兄 後に会稽太守等に
*会稽・・・現在の浙江省紹興市・寧波市と杭州市一部
 (宋書 巻四十七 列伝第七 劉懐粛)

(南朝)宋初代帝、劉裕の母は産後亡くなり、劉裕の父は貧乏で
「乳人」を用意できず、「高祖従母(劉裕の伯母)」が代わりに
劉裕にお乳を与え育てた。(巻四十七)
劉裕は貧しかったものの大志を抱き、細々した事には拘らなかったが
「継母」には孝行したと云われている。(巻一)

「安帝隆安三年(399年)十一月 妖賊孫恩作乱於会稽
 晋朝衛将軍謝琰 前将軍劉牢之東討 牢之請高祖参府軍事」
*妖賊・・・妖術を駆使、時の権力に敵対する賊徒(五斗米道教団
*孫恩・・・「孫恩の乱」の立役者。信者等と会稽にて東晋に叛旗。
*劉牢之(リュウロウシ ?~402)・・・東晋の武将
(宋書 巻一 本紀第一 武帝上)
孫恩ら蜂起の際、劉裕は劉牢之の配下として鎮圧に参軍します。
「妖賊孫恩」ら反乱分子との闘いで劉裕は悉く勝利を収め、
彼の存在・評価が上がる事に。 続く。

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2021年7月 3日 (土)

宋書は晋書よりも先に編纂 771

先週、「東晋王統(317~420年)」のお話をしました。
その情報は全て「晋書」です。
これは648年房玄齢(578~648)・李延寿らによって編纂された事は
以前触れました。
東晋を倒した(表向きは「禅譲」)、(南朝)宋(420~479)、
その歴史書、「宋書(本紀10巻・伝60巻・志30巻)」は
(南朝)宋を打倒した(表向きは「禅譲」)、(南朝)斉(479~502)の
二代目蕭賾(ショウサク)帝(440~493在482~493)の命により
「沈約(シンヤク 441~513)」が編纂したと云われています。
明確な作成年は不明ですが「本紀と伝」は少なくても493年以前に
成立していたと考えられます。(488年が有力)
従って、(南朝)宋滅亡後の時間経過が少ない為、信憑性が高いです。
この「宋書」には「晋書」に記述されていない事が記載されています。

「義熙十二年(416年) 以百済王余映為使持節 都督百済諸軍事
 鎮東将軍 百済王 高祖(420年)践祚 進号鎮東大将軍」
(宋書 巻九十七 列伝第五十七 夷蛮)
*高祖・・・劉裕(363~422在420~422)(南朝)宋初代帝

百済は東晋朝に372・384・386年(晋書)416年(宋書)と
手厚く貢献しています。百済は宋書に依りますとこの後も、
(南朝)宋に小まめにお土産持参、ご挨拶に訪れています。
一方、高句麗の東晋朝への遣使記述が「晋書」よりも詳しく
「宋書」に明記されています。

「高句麗王高璉 晋安帝義熙九年(413年) 遣長史高翼奉表献赭白馬
 以璉為使持節 都督営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」
(宋書 巻九十七 列伝第五十七 夷蛮)
*高璉(コウレン)=長寿王(394~491在413~491)
彼は「広開土王碑」を作製させたお方。

倭国はこの間、413年(晋書)だけ・・・・・。 続く。

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