後燕・北魏 参合陂の運・鈍・根 768
後燕 慕容垂(326~396 71歳)→慕容宝(355~398)→慕容盛(373~401)
北魏 拓跋珪(371~409 39歳)→拓跋嗣(392~423)→拓跋燾(408~452)
(年は数え 各々3世代)
燕帝 386年 慕容垂(61歳)←(燕王 384年)
魏王 386年 拓跋珪(16歳)→(魏帝 398年)
お二人とも、奇しくも「鮮卑人」。
但し、世代が異なります。歳の差は45歳にも。
お爺さんと孫と思われる齢(よわい)の違い。
後燕は407年に滅亡しますが北魏は534年迄続きます。
後燕と北魏は同盟関係を結んだり反駁したりの繰り返し。
この2国、最終的には慕容垂の病死以後、
後燕は弱体化し、
北魏は3代目拓跋燾(トウ)が華北を統一する迄に強大化します。
この拓跋燾が439年「五胡十六国時代」に終止符を打ったのです。
一方、慕容盛は内ゲバにより若干29歳で殺害されています。
この史実を知り得るわたくし達は
一体どのように慮れば良いのでしょうか?
後燕軍と北魏軍とが激突した「参合陂の戦い(395年)」。
*参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東地域)
後燕軍の指揮官は慕容宝41歳、北魏軍は拓跋珪25歳。
(この際、慕容垂は既に70歳、病に冒されていました。)
この闘いは北魏軍拓跋珪の勝利に終わっています。
齢を重ね、「柵(しがらみ)」が増えた分、慕容宝に災いしたのか
若き拓跋珪の決断・指揮・命令が結果的に勝ったのです。
後燕軍の内部分裂も敗戦への道を辿らせたのでしょう。
「敵軍打倒」をシンプルに実行した北魏軍は立派の一言。
「運・鈍・根」を忠実に待ち実践した北魏軍はしたたかな勝利。
いにしえより「勝負事は勝ってなんぼ」の世界。
姑息な風見鶏達は当然「勝ち馬に乗る」こと必定です。
否が応でもそれが現実!
398年拓跋珪は7月盛楽から
平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都、
(平城は冒頓vs.劉邦が戦った白登山がある地域)
12月28歳で皇帝即位の運びになるのです。 続く。
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