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2021年6月26日 (土)

東晋王統(317~420年) 770

この間、華北の状況をお話ししました。
一方、西晋朝から華南へ脱出した東晋朝。
316年に晋朝(司馬炎血脈断絶〈317年〉)が瓦解。
317年建康(現在の南京)にて司馬懿の曽孫、
司馬睿が東晋朝を立ち上げました。
317年 「三月 中略 辛卯 即王位 大赦 改元
     中略 乃備百官 立宗廟社稷於建康」
    (晋書 巻六 帝紀第六 中宗元帝 肅宗明帝)
この後の変遷は一体如何に。
東晋王統は下記の様になります。

01 司馬睿(276~322在位317~322)
02 司馬紹(299~325在位322~325)01 司馬睿の長男
03 司馬衍(321~342在位325~342)02 司馬紹の長男
04 司馬岳(322~344在位325~344)03 司馬衍の弟
336年 「高句麗遣使貢方物」
343年 「高句麗遣使朝献」
    (晋書 巻七 帝紀第七 顕宗成帝 康帝)
05 司馬聃(343~361在位344~361)04 司馬岳の長男 2歳で即位
06 司馬丕(341~365在位361~365)03司馬衍の長男
07 司馬奕(342~386在位365~371)03司馬衍の次男
08 司馬昱(320~372在位371~372)01 司馬睿の末子
372年 「二年春正月辛丑 百済 林邑王各遣使貢方物」
    「六月 遣使拝百済王余句為鎮東将軍 領楽浪太守」
    (晋書 巻九 帝紀第九 太宗簡文帝 孝武帝)
09 司馬曜(362~396在位372~396)08 司馬昱の息子 11歳で即位
383年 淝水の戦い
384年 「秋七月戊戌 百済遣使来貢方物
     苻堅及慕容沖戦于鄭西 堅師敗績」
386年 「夏四月 以百済王世子余暉為使持節都督鎮東将軍 百済王
     代王拓拔圭始改称魏
    (晋書 巻九 帝紀第九 太宗簡文帝 孝武帝)
*余暉・・・こちらは誰に当たるか諸説あり、辰斯王が有力と。
10 司馬徳宗(382~418在位396~418)09 司馬曜の長男 知的障害者
413年 「是歲 高句麗 倭国 及 西南夷 銅頭大師並 献方物」
    (晋書 巻十 帝紀第十 安帝 恭帝)
11 司馬徳文(386~421在位418~420)09 司馬曜の次男

東晋の華南為政期間は100年を超えますが統治内実は決して
順風だったとは云えません。 続く。

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2021年6月19日 (土)

五胡十六国 16国全容 769

*五胡十六国
中国、晋末から南北朝時代が始まるまで、
華北に興亡した五胡と漢人の建てた王朝およびその時代の総称。
十六国は、

匈奴の 漢(前趙) 北涼    
鮮卑の 西秦 前燕 後燕 南燕 南涼
羯(ケツ)の 後趙        
氐(テイ)の 前秦 後涼 成(漢)    
羌(キョウ)の 後秦        
漢人の 北燕 前涼 西涼    

赤表記は以前触れました)
残りの8国について、
*北涼(397~439)
後涼の建康(甘粛)の太守、段業が、
匈奴の沮渠蒙遜(ショキョモウソン)に擁立されて甘粛北部に建国。
のち北魏に滅ぼされた。涼。
*夏(407~435)
匈奴の赫連勃勃(カクレンボツボツ)が407年に建国。
長安を攻略し、関中を平定、陝西、甘粛、オルドスを支配したが、
三代二五年で北魏に滅ぼされた。
*南燕(398~410)
後燕の都、中山が北魏に奪われたとき、後燕は二つに分裂するが、
そのうちの一つを鮮卑族の慕容徳がついで広固に都して建国。
のち東晉に滅ぼされた。
*南涼(397~414)
河西鮮卑(元は拓跋部)禿髪烏孤(トクハツウコ)によって建てられた国。
西秦に都を奪われ降伏。
*後涼(386~403)
386年氐族の呂光が前秦から独立して甘粛に建国。
都は姑臧(甘粛省武威県)。四代で、403年、後秦に滅ぼされた。
*成漢(304~347)
氐族の李雄が、304年四川の成都を中心に建てた国。
国号は成、後に漢。347年、七代で東晉に滅ぼされた。
*北燕(409~436)
後燕の将の馮跋が後燕を奪って熱河付近に建てた国。
二代で北魏に滅ぼされた。
*西涼(400~421)
東晉の末、漢人、敦煌太守李暠(リコウ)が北涼から自立して、
現在の甘粛省西北部の酒泉県に建てた国。都は敦煌・酒泉。
二代で北涼に滅ぼされた。
(日本国語大辞典 小学館)
これで十六国を全てフォローしました。 続く。

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2021年6月12日 (土)

後燕・北魏 参合陂の運・鈍・根 768

後燕 慕容垂(326~396 71歳)→慕容宝(355~398)→慕容盛(373~401)
北魏 拓跋珪(371~409 39歳)→拓跋嗣(392~423)→拓跋燾(408~452)
(年は数え 各々3世代)
燕帝 386年 慕容垂(61歳)←(燕王 384年)
魏王 386年 拓跋珪(16歳)→(魏帝 398年)
お二人とも、奇しくも「鮮卑人」。
但し、世代が異なります。歳の差は45歳にも。
お爺さんと孫と思われる齢(よわい)の違い。
後燕は407年に滅亡しますが北魏は534年迄続きます。
後燕と北魏は同盟関係を結んだり反駁したりの繰り返し。
この2国、最終的には慕容垂の病死以後、
後燕は弱体化し、
北魏は3代目拓跋燾(トウ)が華北を統一する迄に強大化します。
この拓跋燾が439年「五胡十六国時代」に終止符を打ったのです。
一方、慕容盛は内ゲバにより若干29歳で殺害されています。
この史実を知り得るわたくし達は
一体どのように慮れば良いのでしょうか?
後燕軍と北魏軍とが激突した「参合陂の戦い(395年)」。
*参合陂(現在の山西省大同市陽高県の北東地域)
後燕軍の指揮官は慕容宝41歳、北魏軍は拓跋珪25歳。
(この際、慕容垂は既に70歳、病に冒されていました。)
この闘いは北魏軍拓跋珪の勝利に終わっています。
齢を重ね、「柵(しがらみ)」が増えた分、慕容宝に災いしたのか
若き拓跋珪の決断・指揮・命令が結果的に勝ったのです。
後燕軍の内部分裂も敗戦への道を辿らせたのでしょう。
「敵軍打倒」をシンプルに実行した北魏軍は立派の一言。
「運・鈍・根」を忠実に待ち実践した北魏軍はしたたかな勝利。
いにしえより「勝負事は勝ってなんぼ」の世界。
姑息な風見鶏達は当然「勝ち馬に乗る」こと必定です。
否が応でもそれが現実! 
398年拓跋珪は7月盛楽から
平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都、
(平城は冒頓vs.劉邦が戦った白登山がある地域)
12月28歳で皇帝即位の運びになるのです。 続く。

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2021年6月 5日 (土)

鮮卑拓跋部族 珪 北魏建国 767

慕容垂が皇帝を自称した386年正月、
この同じ年月、慕容垂と同じく鮮卑人で以前「前秦」に滅ばされた
拓跋部族の「代」が苻堅の他界により復活します。
「代」王に就いたのは「(拓跋)珪(371~409)=後の道武帝」。
彼は「(拓跋)什翼犍」のお孫さん。

「太祖道武皇帝 諱珪 昭成皇帝(什翼犍)之嫡孫 献明皇帝之子也
 母曰献明賀皇后 中略
 七年(383年)冬十月 苻堅敗于淮南(淝水) 中略 
 八年(384年)慕容暐弟(慕容)沖僭立 姚萇自称大単于 万年秦王
 慕容垂僭称燕王
 九年(385年)(劉)庫仁子(劉)顕殺(劉)眷而代之 乃将謀逆
 中略
 是歲 鮮卑乞伏国仁私署大単于 苻堅為姚萇所殺 子(苻)丕僭立
 登国元年(386年)春正月戊申 帝即代王位 郊天 建元 大会於牛川
 中略
 二月 幸定襄之盛楽 夏四月 改称魏王 」(魏書 巻二 太祖紀)
*慕容沖(359~386)・・・父は慕容儁 慕容暐は兄 西燕の初代帝
 都は長安 西燕は「五胡十六国」にエントリーされてません
*劉庫仁・・・匈奴人独孤部族長 奥様は什翼犍のお嬢さん
*乞伏国仁(キツブクコクジン)・・・西秦の創始者
 都は勇士城(現在の甘粛省蘭州市)
 現在の甘粛省東南部を根拠とした鮮卑部族人
*牛川・・・現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市 この地で代王に
尚、(拓跋)珪は386年2月に都を
「盛楽(内モンゴル自治区フフホト市)」に4月に「魏王」と改めます。
国号が「代」から「魏」になったのです。
この国が後に華北を統一、
約150年弱続いた、通称「北魏(386~534)」です。
ところで、「魏書(北魏書)」ですがこちらは
全130巻(本紀14巻・列伝96巻・志20巻)で554年撰(志は559年)。
編纂者は北斉の「魏収(506~572)」さん。
従って、「晋書」よりも94年前に編集されているのです。
又、北斉ですがこの国は
北魏が東魏(534~550)と西魏(535~556)に分裂、それらが各々
東魏 → 北斉(550~577 北周に敗北)、
西魏 → 北周(556~581) →隋(中国再統一581~618)と。 続く。

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