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2021年5月29日 (土)

慕容垂(後)燕 姚萇(後)秦 建国 766

「垂至河内 殺(苻)飛龍 悉誅氐兵 召募遠近 衆至三万 済河焚橋
 令曰
 吾本外仮秦聲 内規興復 乱法者軍有常刑 奉命者賞不逾日
 天下既定 封爵有差 不相負也」
*河内・・・現在の河南省焦作市
(晋書 巻一百二十三 載記第二十三 慕容垂 以下、同)
慕容垂は洛陽の手前、河内で副将の苻飛龍と氐兵を殺傷、
兵を新たに募集したところ3万人が集った。
ここに至り、慕容垂は兵達に告げます。
「吾は表向き仮に前秦に与していたが本心は燕再興を画策していた。
 これより法を犯す者は罰し、吾に命を預ける者は褒美を与える。
 吾が燕再興を成し遂げた暁には皆の働きに応じて
 領地を与える事を約束する。」と。

「垂至洛陽 (苻)暉閉門距守 不与垂通」
これ以後も、慕容垂は表向き洛陽に向かいます。
しかし、洛陽を守る苻暉は(苻飛龍殺傷の報告を受けていたので)
城門を開けず、慕容垂を入城させなかった。
「(翟)斌又遣長史河南郭通説(慕容)垂 乃許之」
一方、苻堅に叛旗を翻した翟斌は慕容垂に与した。

「洛陽四面受敵 北阻大河 至於控馭燕趙 非形勝之便
 不如北取鄴都 拠之而制天下 衆咸以為然」
北は黄河が阻んでいるが他からは侵入されやすい洛陽へ入城が
叶わないと知った慕容垂は北方の「鄴都(現在の河南省安陽市)」を
奪取、そこを拠点として天下取りに及ぶ決断をすると配下の皆は承諾。

「垂引兵至滎陽 乙太元八年(383年)自称大将軍 大都督
 燕王 承制行事 建元曰燕元(384年1月~386年2月)」
*滎陽(ケイヨウ)(現在の河南省鄭州市)
慕容垂は洛陽の東、鄴の遙か手前、「滎陽」に至り「燕王」を自称、
独自の元号「燕元」を打ち立て独立。
これを以て後の方は「(後)燕」建国としています。
更に、この年、384年12月に慕容暐が苻堅に殺され、
苻堅も又、翌年385年8月慕容垂と共に東晋制圧に賛成した姚萇
殺害された。姚萇はこの年4月に苻堅と袂を分かち前秦から独立、
秦王を自称、「(後)秦」を建国しています。
慕容垂は慕容暐・苻堅の他界後、
386年1月「中山(現在の河北省定州市)」にて皇帝を名乗ります。
この「中山」が「(後)燕」の都に。
尚、前秦は苻堅の息子、鄴城守衛の苻丕が継ぎますが
386年10月東晋軍との闘いで殺されました。
奇しくも、石越の予想が的中した事に。 続く。

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