前秦 前涼・代を滅ぼし華北統一 760
慕容垂が前秦に帰服したお陰で苻堅は前燕制圧に動きます。
370年前秦軍は鄴を攻略、龍城も落とし、慕容暐らを捕縛、
これにて「前燕」は滅亡。
更に、「前秦」は376年に「前涼」(301~376)、
及び、「代」を滅ぼし
華北全域を支配下に置くのです。
*代
中国の五胡十六国時代に、
鮮卑人拓跋部族首猗盧(いろ)が晋に封ぜられて建てた国
(315~376)。その後裔が北魏。(日本国語大辞典 小学館)
「代」は「前燕」と同じ鮮卑人で部族(グループ・セクト)違い。
大元(おおもと)は「檀石槐」迄、遡ります。
拓跋部族の根拠地は盛楽宮(現在の内モンゴル自治区フフホト市)。
西晋滅亡前、315年猗盧が代王に封じられ、
代郡(現在の河北省張家口市)・常山郡(現在の河北省石家庄市)を
任されたのです。
これが「代」の始まり。
しかしなぜかこの「代」は
「五胡十六国」にエントリーされていないのです。
この時代、世はぐじゃぐじゃ様相で、群雄割拠時代に突入しています。
「代」は後に「北魏」となったのでいいかってな感じなの?
その「代」、
什翼犍(ジュウヨクケン)(318~376在位338~376)の時代には
鮮卑人部族違い「前燕」の慕容皝が妹を彼に嫁がせています。
途中、仲違いも生じますが、概ね「代」と「前燕」は仲好しさん関係。
又、時には衝突、ある時には仲良し関係を築いていた
匈奴人の末裔、南匈奴鉄弗部族長の「劉務桓(リュウブカン)」は
什翼犍のお嬢さんが奥様でした。
「鉄弗(テッフツ)」とは父が匈奴人、母が鮮卑人の意味との事。
時の流れにより、やがて匈奴人と鮮卑人も一緒になり合一へ・・・・・。
劉務桓は(後)趙の南匈奴人末裔「石虎」とも好を結んでおり
「代」と「後趙」の両天秤外交戦術を。
しかし、
後趙→前燕→前涼→代は悉く滅亡、前秦は華北統一へ。
そして、早速、377年高句麗・新羅が前秦朝貢と動くのです。 続く。
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