苻堅は長安 慕容垂は鄴へ 763
前秦軍の「淝水の戦い」大敗北についての晋書の描き方は
まるで織田信長の「桶狭間の戦い」を想起させます。
大軍団を小軍団が打ちのめす場景は確かに日本人の感性には
お馴染みです。
しかし、お話は中国大陸場景ですのでそうはいきません。
正統性を追求しなくてはならない「晋書」ですから
最終的には前秦軍の無様さで
東晋軍が勝利しなければならない構造です。
そこの所はご勘案下さい。
前秦軍の敗北は
大軍団故の情報伝達の不備・困難性、
元東晋軍将軍(前秦軍敗れた将軍)を掌握できていなかった事、
苻堅の東晋征圧計画を指示しない群臣らの戦意の低さ、等々ですが
一番はなんと言っても「勝利の女神」が苻堅を見限った事に尽きます。
勝敗の行方は最終的に人智を越えた「運」次第。
だから「勝負は最後まで諦めるな」と巷では云われるのです。
ところで、心ならずも大敗を喫した苻堅は
唯一陣容が崩れていなかった慕容垂軍に「千余騎」で
辿り着き九死に一生を得ます。
「諸軍悉潰 惟慕容垂一軍独全 (苻)堅以千余騎赴之
(慕容)垂子(慕容)宝勧(慕容)垂殺(苻)堅
(慕容)垂不従 乃以兵属(苻)堅
中略
未及関而(慕容)垂有弐志 説(苻)堅請巡撫燕 岱 並求拝墓
(苻)堅許之 権翼固諫以為不可 (苻)堅不従」
(晋書 巻一百十四 載記第十四 苻堅下)
苻堅が慕容垂軍に着陣後、慕容垂の息子、慕容宝(355~398)が
窮地に陥った苻堅殺害を父に勧めます。
しかし、慕容垂はこの進言を受け容れていません。
苻堅は体制を立て直す為、都の長安を目指します。
洛陽を過ぎ「澠池(ベンチ)」(現在の河南省三門峡市)に着いた際
慕容垂は苻堅に
前秦軍の淝水敗戦により動揺している燕(現在の北京市)の慰撫と
その道すがら、前燕の最後の都、鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)に
ある慕容一族陵墓へのお参りを言上します。
苻堅はこれらを許可します。
この際、「権翼」(前秦の群臣、東晋征圧反対の急先鋒者)は慕容垂の
離反を案じ不許可を諫言します。
しかし、苻堅はこの進言を受け容れていません。
慕容垂、及び、苻堅はさすがに器量を備えています。 続く。
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