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2021年4月24日 (土)

苻堅は長安 慕容垂は鄴へ 763

前秦軍の「淝水の戦い」大敗北についての晋書の描き方は
まるで織田信長の「桶狭間の戦い」を想起させます。
大軍団を小軍団が打ちのめす場景は確かに日本人の感性には
お馴染みです。
しかし、お話は中国大陸場景ですのでそうはいきません。
正統性を追求しなくてはならない「晋書」ですから
最終的には前秦軍の無様さで
東晋軍が勝利しなければならない構造です。
そこの所はご勘案下さい。
前秦軍の敗北は
大軍団故の情報伝達の不備・困難性、
元東晋軍将軍(前秦軍敗れた将軍)を掌握できていなかった事、
苻堅の東晋征圧計画を指示しない群臣らの戦意の低さ、等々ですが
一番はなんと言っても「勝利の女神」が苻堅を見限った事に尽きます。
勝敗の行方は最終的に人智を越えた「運」次第。
だから「勝負は最後まで諦めるな」と巷では云われるのです。
ところで、心ならずも大敗を喫した苻堅は
唯一陣容が崩れていなかった慕容垂軍に「千余騎」で
辿り着き九死に一生を得ます。

「諸軍悉潰 惟慕容垂一軍独全 (苻)堅以千余騎赴之
 (慕容)垂子(慕容)宝勧(慕容)垂殺(苻)堅
 (慕容)垂不従 乃以兵属(苻)堅
 中略
 未及関而(慕容)垂有弐志 説(苻)堅請巡撫燕 岱 並求拝墓
 (苻)堅許之 権翼固諫以為不可 (苻)堅不従」
(晋書 巻一百十四 載記第十四 苻堅下)
苻堅が慕容垂軍に着陣後、慕容垂の息子、慕容宝(355~398)が
窮地に陥った苻堅殺害を父に勧めます。
しかし、慕容垂はこの進言を受け容れていません。
苻堅は体制を立て直す為、都の長安を目指します。
洛陽を過ぎ「澠池(ベンチ)」(現在の河南省三門峡市)に着いた際
慕容垂は苻堅に
前秦軍の淝水敗戦により動揺している燕(現在の北京市)の慰撫と
その道すがら、前燕の最後の都、鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)に
ある慕容一族陵墓へのお参りを言上します。
苻堅はこれらを許可します。
この際、「権翼」(前秦の群臣、東晋征圧反対の急先鋒者)は慕容垂の
離反を案じ不許可を諫言します。
しかし、苻堅はこの進言を受け容れていません。
慕容垂、及び、苻堅はさすがに器量を備えています。 続く。

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2021年4月17日 (土)

苻堅 淝水の戦いで敗北 762

東晋征討軍の先陣、苻融(苻堅の弟)は
「寿春(現在の安徽省淮南市寿県)」を陥落、先陣別働隊の慕容垂は
「鄖城(現在の湖北省十堰(エン)市)」を攻略。
苻堅は要衝、「寿春」奪取の報を受け本隊を抜け「寿春」へ。
「寿春」と「合肥(現在の安徽省合肥市)」を結んで流れているのが
「淝水(現在の安徽省淮南(ワイナン)市寿県の南東を流れる川)」。
「寿春」を死守し「合肥」を落とせば
「巣湖(現在の合肥市にある淡水湖)」 → 「長江」へと続き、
「長江」を下れば東晋の首都、「建康(南京)」に到達します。
「寿春」の東晋征討軍の先陣は「淝水」をはさんで東晋郡と対峙。
「淝水」の南岸に陣取る前秦軍、
「淝水」の北側に迎え撃とうとする東晋軍。
ここで東晋軍は苻融の前秦軍に提案します。

「遣使謂(苻)融曰
 君懸軍深入 置陣逼水 此持久之計 豈欲戦者乎 若小退師
 令将士周旋 僕与君公緩轡而観之 不亦美乎
 (苻)融於是麾軍却陣 欲因其済水 覆而取之
 軍遂奔退 制之不可止 (苻)融馳騎略陣 馬倒被殺 軍遂大敗
 王師乗勝追撃 至於青岡 死者相枕
 (苻)堅為流矢所中 単騎遁還於淮北」
*淮北・・・現在の安徽省淮北(ワイホク)市
(晋書 巻一百十四 載記第十四 苻堅下)
「あなたの軍は『淝水』岸に陣取っているのは持久戦ですか。
 私達はあなたの軍と戦いたいのです。
 少し陣を退いて頂ければ私達は川を渡ります。
 そこで雌雄を決したら如何でしょう」 と。
これに対し、慢心だったのか、なぜか
圧倒的な兵力を擁する苻堅は
持久戦に持ち込まず応じてしまうのです。
彼は「淝水」の南岸に陣取る前秦軍をやや後退させ、
東晋軍に「淝水」を半分渡った所で前秦軍を反転させ攻撃する策に。
苻融はこれを採用、前秦軍をやや後退させます。
ところが、ここでドラマが起きます。
命令系統の不備だったのか後退し始めた前秦軍の兵士達の退却が
続き反転攻勢にでなかったです。
苻融は馬を馳せ陣を制止させようとしますが、
退却の波に呑まれ馬は転倒、
敵兵に殺害され、これにて苻融の前秦軍は大敗を喫するのです。
苻堅も流れ矢に当たり負傷、
からくも単騎で淮北まで逃げ延びたのです。 続く。

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2021年4月10日 (土)

前秦 苻堅 東晋制圧決起 761

376年に華北統一を果たした前秦の苻堅は
華南地域で唯一存続、建康(現在の南京)を拠点としている
東晋征圧を目論みます。
378年「南陽(現在の河南省南陽市)」を攻略。
379年「襄陽(ジョウヨウ)(現在の湖北省襄陽市)」を奪取。
苻堅は内部分裂の解消、天候不順によ飢饉が収束を迎えたの期に
382年広く会議を興し群臣に「東晋征討」について諮問します。

「吾統承大業垂二十載 芟夷逋穢 四方略定 惟東南一隅未賓王化
 吾毎思天下不一 未嘗不臨食輟餔 今欲起天下兵以討之
 略計兵杖精卒 可有九十七万 吾将躬先啓行 薄伐南裔
 于諸卿意何如」
(晋書 巻一百十四 載記第十四 苻堅下)

私は即位後20年以上を要し漸く華北を統一したが、
未だ中国大陸東南の一隅を制圧できず、中国統一を果たしていない。
今や我が軍は97万に及ぶ兵を要している。
この期を捉え、私が軍団の先頭に立ち「南裔(東晋)」を伐つ存念だが
皆は如何な思いか意見を聞きたいと。

この苻堅の所望に大方の群臣は反対表明します。
賛同したのは前燕に帰服、苻堅に恩義を感じる慕容垂
羌族でこの時期に兗州刺史(長官)で将軍だった
姚萇(ヨウチョウ)(331~394)らと一部の血気盛んな若者のみ。
*羌族
中国西北辺境の山岳地帯に散在するチベット系遊牧民。
漢代にしばしば中国内地へ侵入し、
唐代には党項、白蘭の名称であらわれ、のち西夏国を建てた。
(日本国語大辞典 小学館)
前秦の群臣は
「ご自分の今だけ」安穏に暮らしたい方が大多数だった事に?
基本的に器の小さな方はこの考え方にどうしても陥ります。
昨今日本で話題になった「男女平等」・「女性蔑視」問題。
この発想は「平和・安寧・安心幻想与太話」が横行している時代話。
世界・世のヘゲモニーを狙う殿方のお仕事は闘争相手を潰す事。
男性は矢面に立ち、女性のお仕事は専ら殿方への後方支援。
いにしえより男女は自ずと役割分担が異なっているのです。
さすがに、
リーダーの苻堅は群臣の意見を受け容れず、
決してぶれず、383年秋、東晋征討に決起、動くのです。 続く。

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2021年4月 3日 (土)

前秦 前涼・代を滅ぼし華北統一 760

慕容垂が前秦に帰服したお陰で苻堅は前燕制圧に動きます。
370年前秦軍は鄴を攻略、龍城も落とし、慕容暐らを捕縛、
これにて「前燕」は滅亡。
更に、「前秦」は376年に「前涼」(301~376)、
及び、「代」を滅ぼし
華北全域を支配下に置くのです。
*代
中国の五胡十六国時代に、
鮮卑人拓跋部族首猗盧(いろ)が晋に封ぜられて建てた国
(315~376)。その後裔が北魏。(日本国語大辞典 小学館)
「代」は「前燕」と同じ鮮卑人で部族(グループ・セクト)違い。
大元(おおもと)は「檀石槐」迄、遡ります。
拓跋部族の根拠地は盛楽宮(現在の内モンゴル自治区フフホト市)。
西晋滅亡前、315年猗盧が代王に封じられ、
代郡(現在の河北省張家口市)・常山郡(現在の河北省石家庄市)を
任されたのです。
これが「代」の始まり。
しかしなぜかこの「代」は
「五胡十六国」にエントリーされていないのです。
この時代、世はぐじゃぐじゃ様相で、群雄割拠時代に突入しています。
「代」は後に「北魏」となったのでいいかってな感じなの?
その「代」、
什翼犍(ジュウヨクケン)(318~376在位338~376)の時代には
鮮卑人部族違い「前燕」の慕容皝が妹を彼に嫁がせています。
途中、仲違いも生じますが、概ね「代」と「前燕」は仲好しさん関係。
又、時には衝突、ある時には仲良し関係を築いていた
匈奴人の末裔、南匈奴鉄弗部族長の「劉務桓(リュウブカン)」は
什翼犍のお嬢さんが奥様でした。
「鉄弗(テッフツ)」とは父が匈奴人、母が鮮卑人の意味との事。
時の流れにより、やがて匈奴人と鮮卑人も一緒になり合一へ・・・・・。
劉務桓は(後)趙の南匈奴人末裔「石虎」とも好を結んでおり
「代」と「後趙」の両天秤外交戦術を。
しかし、
後趙→前燕→前涼→代は悉く滅亡、前秦は華北統一へ。
そして、早速、377年高句麗・新羅が前秦朝貢と動くのです。 続く。

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