慕容恪を絶賛の晋書 757
「晋書 巻一百十一 載記第十一 慕容恪」では
「慕容恪 字玄恭 (慕容)皝之第四子也 幼而謹厚 沈深有大度
母高氏無寵 皝未之奇也 年十五 身長八尺七寸 容貌魁傑
雄毅厳重 毎所言及 輒経綸世務 皝始異焉 乃授之以兵
数従皝征伐 臨機多奇策 使鎮遼東 甚有威恵 高句麗憚之
不敢為寇 皝使恪与(慕容)儁俱伐夫余 儁居中指授而已
恪身当矢石 推鋒而進 所向輒潰 中略
臨終 (慕容)暐親臨問以後事 恪曰
臣聞報恩莫大薦士 板築猶可 而況国之懿籓
呉王(=慕容垂)文武兼才 管 蕭之亜 陛下若任之以政 国其少安
不然 臣恐二寇(=前秦・東晋)必有窺窬之計
言終而死」
*八尺七寸・・慕容恪時代の1尺24.5㎝として213㎝程に
*管(=管仲)
中国、春秋時代の斉の宰相。安徽省の人。名は夷吾。字は仲。
親友鮑叔牙の勧めで桓公)に仕え、富国強兵策を推進。
斉を強国とし、桓公を中原の覇者とした。
「管子」二四巻の著者とされる。管子。紀元前六四五年没。
*蕭(=蕭何 ショウカ)
中国、前漢の政治家。諡は文終。沛の豊邑(江蘇省豊県)の人。
高祖劉邦第一の功臣で、丞相から相国となり、秦の法律・制度・
文物の取捨吸収に努め、漢王朝経営の基礎を作った。
律九章を作ったといわれる。
韓信・張良とともに漢の三傑と称される。紀元前一九三年没。
*韓信
中国、前漢の武将。淮陰の人。
張良、蕭何とともに漢の三傑といわれる。
高祖に従い、蕭何の推薦で大将となり、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、
項羽を攻撃して大功をあげる。
漢の統一後、斉王から楚王になったが、淮陰侯に左遷され、
呂后(りょこう)によって殺された。紀元前一九六年没。
*張良
中国、漢初の功臣。字は子房。高祖の作戦の中枢となり、
蕭何、韓信とともに漢創業の三傑といわれた。
秦の始皇帝の暗殺に失敗して逃亡中、橋の上で黄石老人に
太公望の兵法の書を授かったという話は著名。紀元前一六八年没。
(日本国語大辞典 小学館)
と記されています。
晋書の著者は慕容恪をまるで観てきたかにように絶賛しています。
彼は幼い頃から
「謹厚(慎み深く温厚)」で「沈深(沈着思慮深い)」で
「大度(度量が大きい)」で有ったと。
15歳になると立っ端は「八尺七寸」、「容貌」は「魁傑(逞しい体格)」、
「雄毅(雄々しく力強く)」、「厳重(厳かで厳めしい様子)」に。
「漢」を再興した匈奴人劉淵でさえこれ程褒められてはいません。
「冒頓単于の末裔 劉淵登場」
「劉淵は文武両道でいい男」
又、彼は高句麗殲滅に多大に貢献、
高句麗の先祖部族「夫余」制圧の際(346年)の逸話として
兄の慕容儁は安全な陣中に留まり指示するのみで、
慕容恪は先陣を務め、敵の攻撃を矢面に立ち受け、敵を粉砕したと。
*夫余(扶余)
紀元前一世紀から五世紀まで、中国東北部(旧満州南部)から朝
鮮北部にかけて活躍したツングース系部族。また、その建てた国。
一世紀から三世紀が全盛期で、松花江流域平野を占め、のち鮮卑の一族、慕容氏に滅ぼされた。高句麗・百済も扶余の出という。
(日本国語大辞典 小学館)
続く。
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