慕容垂 前秦 苻堅に帰服 759
慕容垂は戦勝後、前燕の都、鄴へ凱旋します。
これにて彼の名声は益々上がる事に。
しかし、往々にして、およそ努力等々しない輩は
それに恨(うら)み・妬(ねた)み・嫉(そね)みを抱くのが世の常。
慕容恪(父は慕容皝、慕容垂は弟)の死後、この時代、
前燕の国政を担っていた方は唯一の重臣、
慕容評(父は慕容廆、慕容皝は兄)、
この方が慕容垂をえらく嫉妬した張本人。
もうお一方は慕容暐の母親、この時点では景昭(可足渾)皇太后さん。
彼女は慕容垂の妻、段妃(鮮卑人段族長、段末波のお嬢さん)を
無実の罪で死に追いやったお方。(358年)
彼女も慕容垂の存在を疎ましく・羨(うらや)ましく思っていたのです。
慕容垂は前燕の内部分裂を回避する為、
鄴脱出を企図、龍城目指し一族共々逃走。
慕容垂の逃亡を聞き及んだ慕容評は即、追っ手を差し向けます。
息子の慕容令(慕容垂と段妃との長男 ?~369)が父に進言。
企図発覚で龍城へ辿り着けない為、ここは隣国、前秦に帰服ではと。
前秦の苻堅(333~385在位357~385)は
慕容垂の才覚を認め慕容恪の死後も前燕との戦を止めていました。
「是時(369年)慕容垂避害奔于堅 中略 (苻)堅曰
吾方以義致英豪 建不世之功 且其初至 吾告之至誠
今而害之 人将謂我何」
(晋書 巻一百十三 載記第十三 苻堅上)
苻堅は慕容垂を「義」があり「英豪」と表現、讃えています。
(あくまでも表現は晋書編纂者ですから。)
*英豪・・すぐれて、えらいさま。また、その人。英雄。英傑。
(日本国語大辞典 小学館)
慕容垂は息子の言を受け容れ、踵(きびす)を返し一路洛陽・長安へ。
この情報を得た苻堅はたいそう悦び、丁重に迎入れたと。
「及聞其至 (苻)堅大悦 郊迎執手 礼之甚重 堅相王猛悪垂雄略
勧堅殺之 堅不従 以為冠軍將軍 封賓都侯 食華陰之五百戶」
(晋書 巻一百二十三 載記第二十三 慕容垂)
但し、前秦の太子太傅、王猛(325~375 漢人)は慕容垂を訝り、
苻堅に慕容垂殺害を勧めたと。
いつの世も、人それぞれの思惑が錯綜し、歴史が刻まれています。
今の世も、全く同様な事が・・・・・。 続く。
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