西氐族苻健 東鮮卑族慕容儁 756
(前)秦、氐族について「日本国語大辞典 小学館」では
*(前)秦
中国、五胡十六国の一つ(351~394)。氐族の苻健の創建。
国号は大秦。首都長安。三代苻堅のとき、国力が充実、(前)燕・
(前)涼などを滅ぼして江北を統一しその勢力は西域諸国にまで
及んだ。江南併合を企てて南下、383年東晉との淝水(ひすい)の戦い
に敗れ、やがて(後)秦の姚萇(ようちょう)に滅ぼされた。
*氐族
二世紀から六世紀頃まで中国西北部で活躍したチベット系種族。
五胡の一つ。後漢後中国に移住し、晉の滅亡後、成漢・(前)秦・
(後)涼を建てたが、のち衰えて漢族に同化された。
*(前)涼
中国、五胡十六国の一つ301年、漢人の涼州(甘粛省武威県)刺史
張軌が建てた国。河西のオアシス地帯を中心に、東は河南から
西は高昌までを領有、376年、前秦の苻堅に滅ぼされた。
と説明されています。
新羅・高句麗が朝貢した際(377年)の(前)秦のトップは
苻堅(333~385在位357~385)。
匈奴人石虎の(後)趙が倒れた後、華北地域は
鮮卑人慕容皝の息子、慕容儁(319~360在位349~360)の「(前)燕」
氐人苻健の息子、苻堅の「(前)秦」
この二国、東(「(前)燕」)・西(「(前)秦」)が支配していました。
(あくまでも基本的に。かの時代明確な国境観念は存在しません。)
互いに華北では敵同士なのですが華南の「東晋」打倒では味方同士。
350年慕容儁は中原攻略を目論み根城を
「龍城」(遼寧省朝陽市)から
「薊(ケイ)城」(現在の北京市)へ移り、(後)趙の消滅後、357年
「鄴(ギョウ)」(現在の河北省邯鄲(カンタン)市)へ遷っています。
鄴はあの曹操の根拠地でもあり、劉淵が人質で勉学に励んでいた所。
「劉淵 鄴より脱出左国城へ」をご確認を。
360年慕容儁(シュン)が亡くなり息子の
慕容暐(イ)(350~384在位360~370)が跡を継ぎます。
但し、如何せん彼は未だ数え11歳で国政は無理、彼を補佐したのが
病に伏した慕容儁からの譲位要請を辞退した異母弟、
慕容恪(カク)(?~367)。
365年慕容恪は異母弟、慕容垂(326~396)等と共に
東晋の影響力が残っていた「洛陽」を征圧、支配下にします。 続く。
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