« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »

2021年3月27日 (土)

慕容垂 前秦 苻堅に帰服 759

慕容垂は戦勝後、前燕の都、鄴へ凱旋します。
これにて彼の名声は益々上がる事に。
しかし、往々にして、およそ努力等々しない輩は
それに恨(うら)み・妬(ねた)み・嫉(そね)みを抱くのが世の常。
慕容恪(父は慕容皝、慕容垂は弟)の死後、この時代、
前燕の国政を担っていた方は唯一の重臣、
慕容評(父は慕容廆、慕容皝は兄)、
この方が慕容垂をえらく嫉妬した張本人。
もうお一方は慕容暐の母親、この時点では景昭(可足渾)皇太后さん。
彼女は慕容垂の妻、段妃(鮮卑人段族長、段末波のお嬢さん)を
無実の罪で死に追いやったお方。(358年)
彼女も慕容垂の存在を疎ましく・羨(うらや)ましく思っていたのです。
慕容垂は前燕の内部分裂を回避する為、
鄴脱出を企図、龍城目指し一族共々逃走。
慕容垂の逃亡を聞き及んだ慕容評は即、追っ手を差し向けます。
息子の慕容令(慕容垂と段妃との長男 ?~369)が父に進言。
企図発覚で龍城へ辿り着けない為、ここは隣国、前秦に帰服ではと。
前秦の苻堅(333~385在位357~385)は
慕容垂の才覚を認め慕容恪の死後も前燕との戦を止めていました。
「是時(369年)慕容垂避害奔于堅 中略 (苻)堅曰
 吾方以義致英豪 建不世之功 且其初至 吾告之至誠
 今而害之 人将謂我何」
(晋書 巻一百十三 載記第十三 苻堅上)

苻堅は慕容垂を「義」があり「英豪」と表現、讃えています。
(あくまでも表現は晋書編纂者ですから。)
*英豪・・すぐれて、えらいさま。また、その人。英雄。英傑。
(日本国語大辞典 小学館)
慕容垂は息子の言を受け容れ、踵(きびす)を返し一路洛陽・長安へ。
この情報を得た苻堅はたいそう悦び、丁重に迎入れたと。
「及聞其至 (苻)堅大悦 郊迎執手 礼之甚重 堅相王猛悪垂雄略
 勧堅殺之 堅不従 以為冠軍將軍 封賓都侯 食華陰之五百戶」
(晋書 巻一百二十三 載記第二十三 慕容垂)
但し、前秦の太子太傅、王猛(325~375 漢人)は慕容垂を訝り、
苻堅に慕容垂殺害を勧めたと。
いつの世も、人それぞれの思惑が錯綜し、歴史が刻まれています。
今の世も、全く同様な事が・・・・・。 続く。

| | コメント (0)

2021年3月20日 (土)

慕容垂 東晋軍を撃退 758

367年晋書の著者に褒めちぎられた慕容恪は臨終間際の際、
見舞いに訪れた慕容暐(18歳)に後事を問われ、答え諭します。
「臣下の私が聞くところに依りますと、
 これ迄の恩に報いるには賢人推挙が最上であると言われています。
 そこで私は「呉王(=慕容垂)」をお薦めします。
 かれは「文武」両道、才能も兼ね備えています。
 秦を滅ぼし、漢を樹立した劉邦を支えた「管仲」・「蕭何」にも
 匹敵します。もし「陛下(=慕容暐)」が国政を彼に任せれば
 国は安寧です。さもなくば必ずや前秦・東晋に隙を窺われます。」
(管仲・蕭何、及び、上記の原文は「慕容恪を絶賛の晋」で。)
このように述べ、間もなくあの世に旅立ちます。
慕容垂(326~396)はこの時、壮年の41歳。
但し、慕容暐は慕容恪に聞いておきながら
慕容垂を国政に参加させませんでした。
慕容暐の問題なのか取り巻き関連なのかは不明。しかしながら、
数え18歳のリーダがそのようにしたからには慕容暐は「前燕」を
「前秦・東晋」の攻撃・政治介入から死守しようとする「気持ち」が
欠如していた事だけは事実です。残念ながら、
慕容暐は「人間観察感性」を備えていなかったのでしょう。
慕容恪が亡くなって2年後の
369年「東晋」は「前燕」討伐攻撃を仕掛けます。
東晋軍は北進、各地を落とし、「前燕」派遣将軍を殲滅、
枋頭(現在の河南省鶴壁市)迄も迫ったのです。
この状況に慕容垂は慕容暐に「征討東晋軍」将軍を要請、
慕容暐、及び、腰が引けている取り巻きらから賛同を受け、いざ出陣。
慕容垂軍は各地で奮戦、敵軍の兵站を絶ち敵兵力を削ぐ作戦に。
この作戦等が功を奏し、東晋軍は壊滅を避ける為退却。
慕容垂軍は未だ血気盛んな東晋殿(しんがり)軍をゆっくり目に追尾、
彼らが疲弊したと見るや一気呵成に追撃、、
襄邑(ジョウユウ)(現在の河南省商丘市)にて
東晋軍将軍に逃げられるも東晋軍を殲滅・撃退したのです。 続く。

| | コメント (0)

2021年3月13日 (土)

慕容恪を絶賛の晋書 757

「晋書 巻一百十一 載記第十一 慕容恪」では
「慕容恪 字玄恭 (慕容)皝之第四子也 幼而謹厚 沈深有大度
 母高氏無寵 皝未之奇也 年十五 身長八尺七寸 容貌魁傑
 雄毅厳重 毎所言及 輒経綸世務 皝始異焉 乃授之以兵
 数従皝征伐 臨機多奇策 使鎮遼東 甚有威恵 高句麗憚之
 不敢為寇 皝使恪与(慕容)儁俱伐夫余 儁居中指授而已
 恪身当矢石 推鋒而進 所向輒潰 中略
 臨終 (慕容)暐親臨問以後事 恪曰
 臣聞報恩莫大薦士 板築猶可 而況国之懿籓
 呉王(=慕容垂)文武兼才 管 蕭之亜 陛下若任之以政 国其少安
 不然 臣恐二寇(=前秦・東晋)必有窺窬之計
 言終而死」
*八尺七寸・・慕容恪時代の1尺24.5㎝として213㎝程に
*管(=管仲)
中国、春秋時代の斉の宰相。安徽省の人。名は夷吾。字は仲。
親友鮑叔牙の勧めで桓公)に仕え、富国強兵策を推進。
斉を強国とし、桓公を中原の覇者とした。
「管子」二四巻の著者とされる。管子。紀元前六四五年没。
*蕭(=蕭何 ショウカ)
中国、前漢の政治家。諡は文終。沛の豊邑(江蘇省豊県)の人。
高祖劉邦第一の功臣で、丞相から相国となり、秦の法律・制度・
文物の取捨吸収に努め、漢王朝経営の基礎を作った。
律九章を作ったといわれる。
韓信・張良とともに漢の三傑と称される。紀元前一九三年没。
*韓信
中国、前漢の武将。淮陰の人。
張良、蕭何とともに漢の三傑といわれる。
高祖に従い、蕭何の推薦で大将となり、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、
項羽を攻撃して大功をあげる。
漢の統一後、斉王から楚王になったが、淮陰侯に左遷され、
呂后(りょこう)によって殺された。紀元前一九六年没。
張良
中国、漢初の功臣。字は子房。高祖の作戦の中枢となり、
蕭何、韓信とともに漢創業の三傑といわれた。
秦の始皇帝の暗殺に失敗して逃亡中、橋の上で黄石老人に
太公望の兵法の書を授かったという話は著名。紀元前一六八年没。
(日本国語大辞典 小学館)
と記されています。
晋書の著者は慕容恪をまるで観てきたかにように絶賛しています。
彼は幼い頃から
「謹厚(慎み深く温厚)」で「沈深(沈着思慮深い)」で
「大度(度量が大きい)」で有ったと。
15歳になると立っ端は「八尺七寸」、「容貌」は「魁傑(逞しい体格)」、
「雄毅(雄々しく力強く)」、「厳重(厳かで厳めしい様子)」に。
「漢」を再興した匈奴人劉淵でさえこれ程褒められてはいません。
「冒頓単于の末裔 劉淵登場」
「劉淵は文武両道でいい男」
又、彼は高句麗殲滅に多大に貢献、
高句麗の先祖部族「夫余」制圧の際(346年)の逸話として
兄の慕容儁は安全な陣中に留まり指示するのみで、
慕容恪は先陣を務め、敵の攻撃を矢面に立ち受け、敵を粉砕したと。
*夫余(扶余)
紀元前一世紀から五世紀まで、中国東北部(旧満州南部)から朝
鮮北部にかけて活躍したツングース系部族。また、その建てた国。
一世紀から三世紀が全盛期で、松花江流域平野を占め、のち鮮卑の一族、慕容氏に滅ぼされた。高句麗・百済も扶余の出という。
(日本国語大辞典 小学館)
 続く。

| | コメント (0)

2021年3月 6日 (土)

西氐族苻健 東鮮卑族慕容儁 756

(前)秦、氐族について「日本国語大辞典 小学館」では
*(前)秦
中国、五胡十六国の一つ(351~394)。氐族の苻健の創建。
国号は大秦。首都長安。三代苻堅のとき、国力が充実、(前)燕・
(前)涼などを滅ぼして江北を統一しその勢力は西域諸国にまで
及んだ。江南併合を企てて南下、383年東晉との淝水(ひすい)の戦い
に敗れ、やがて(後)秦の姚萇(ようちょう)に滅ぼされた。
*氐族
二世紀から六世紀頃まで中国西北部で活躍したチベット系種族。
五胡の一つ。後漢後中国に移住し、晉の滅亡後、成漢・(前)秦・
(後)涼を建てたが、のち衰えて漢族に同化された。
*(前)涼
中国、五胡十六国の一つ301年、漢人の涼州(甘粛省武威県)刺史
張軌が建てた国。河西のオアシス地帯を中心に、東は河南から
西は高昌までを領有、376年、前秦の苻堅に滅ぼされた。
と説明されています。
新羅・高句麗が朝貢した際(377年)の(前)秦のトップは
苻堅(333~385在位357~385)。
匈奴人石虎の(後)趙が倒れた後、華北地域は
鮮卑人慕容皝の息子、慕容儁(319~360在位349~360)の「(前)燕」
氐人苻健の息子、苻堅の「(前)秦」
この二国、東(「(前)燕」)・西(「(前)秦」)が支配していました。
(あくまでも基本的に。かの時代明確な国境観念は存在しません。)
互いに華北では敵同士なのですが華南の「東晋」打倒では味方同士。
350年慕容儁は中原攻略を目論み根城を
「龍城」(遼寧省朝陽市)から
「薊(ケイ)城」(現在の北京市)へ移り、(後)趙の消滅後、357年
「鄴(ギョウ)」(現在の河北省邯鄲(カンタン)市)へ遷っています。
鄴はあの曹操の根拠地でもあり、劉淵が人質で勉学に励んでいた所。
「劉淵 鄴より脱出左国城へ」をご確認を。
360年慕容儁(シュン)が亡くなり息子の
慕容暐(イ)(350~384在位360~370)が跡を継ぎます。
但し、如何せん彼は未だ数え11歳で国政は無理、彼を補佐したのが
病に伏した慕容儁からの譲位要請を辞退した異母弟、
慕容恪(カク)(?~367)。
365年慕容恪は異母弟、慕容垂(326~396)等と共に
東晋の影響力が残っていた「洛陽」を征圧、支配下にします。 続く。

| | コメント (0)

« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »