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2021年2月20日 (土)

高句麗・百済人は韓半島等へ 754

八王・永嘉の乱により荒廃した民百姓は安心・安全な地を求め彷徨う
中で、安住の地と思われた所が鮮卑人慕容廆が治める遼西でした。
そこの表現が
「先王(慕容廆)以神武聖略 保全一方 威以殄奸 徳以懐遠
 故九州之人 塞表殊類 繈負万里 若赤子之帰慈父
 流人之多旧土十倍有余 人殷地狹 故無田者十有四焉」
になります。遼西地域の戸数は以前に比して10倍を超えたとか。
以前、慕容廆について触れましたのでご確認を。
「中国東北部に鮮卑慕容部族」
「慕容廆 張華からお褒め言葉」
「匈奴・鮮卑・漢語など意思疎通は」
この次の描写では慕容皝の業績を褒めている箇所です。
「殿下(慕容皝)以英聖之資 克広先業 南摧強趙 東滅(高)句麗
 開境三千 戸増十万 継武闡広之功」
遼西から南に位置する敵対勢力の(後)趙を粉砕、
遼西・遼東から東にいる高句麗を殲滅し、
支配領域を増やし、住人も増加させました。
しかし、この状況だからこそ封裕は徳政を行うよう解きます。
次に
「(高)句麗 百済及宇文 段部之人 皆兵勢所徙
 非如中国慕義而至 咸有思帰之心 今戸垂十万 狹湊都城
 恐方将為国家深害 宜分其兄弟宗属 徙于西境諸城 撫之以恩
 検之以法 使不得散在居人 知国之虚実」
と展開します。
ここで封裕は忠告をします。
戦闘の結果、捕虜となり前燕に連れてこられた
高句麗・百済、宇文・段部族の人々は八王・永嘉の乱に依り
中国各地から遼西に好んで来た民百姓とは全く異なり、彼らは故郷に
帰りたい気持ちを持っています。(宇文・段部は鮮卑族の別部族)
前燕の都は現在沢山の人口を抱えています。
やがて、害が及ぶやも知れません。ここは宇文・段部族は「西境」に
高句麗・百済人は韓半島等へ「慰撫」を以て移動させる事がよいと。
この史書、晋書が倭と親交が深かった「百済」の初見です。
今は昔、「百済は晋書 載記 慕容皝で」でも紹介しました。 続く。

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