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2021年2月 6日 (土)

(前)燕・高句麗・(後)趙 752

313年(西)晋王朝崩壊に伴い、最東部に存在した「楽浪・帯方郡」が
消滅した件は以前お話ししました。
そして、旧楽浪・帯方郡地域は間隙を縫い「高句麗」が占拠します。
「高句麗」の根城は「丸都城(現在の中国吉林省集安市)」。
これに対峙したのがこの時期中国東北部遼西・東を支配地にした
鮮卑族慕容部の末裔、慕容廆(269~333)でした。
晋書は四夷として「高句麗」を記載していません。
記述されている箇所は「載記第八 慕容廆」で
「高句麗寇遼東 (慕容)廆遣衆撃敗之」等、以後、
各慕容氏の載記で散見されます。
基本的に「(前)燕」と「高句麗」は遼東・玄菟地域で戦闘を行い、
「高句麗」は常に敗戦の憂き目を味わっていた感じ。
壊滅的な大敗を食らわしたのは慕容廆の息子、慕容皝(297~348)。
343年慕容皝が高句麗王、釗(ショウ)(?~371在位331~371)の
居城、丸都城を大挙して撃破、釗は東方へ敗走、
翌年、弟を慕容皝の所へ送り、詫びを入れ、許しを請うたと。
(宝物を貢納、臣下に。)
但し、釗は懲りずに度々「(前)燕」にちょっかいを出していたとか。
この間、「漢」を建国した劉淵は既に亡くなっており、
劉淵の養子、劉曜(275?~329在位318~329)
洛陽、長安を殲滅、最終的に西晋を滅亡させたお方。(316年)
319年10月彼は「漢」から「(前)趙」へ国号を変更します。
ところが、同年11月「漢」の武将で劉曜と共に西晋を打倒した、
石勒(セキロク)(274~333在位319~333)が劉曜と袂を分かち
「(後)趙」王を称したのです。彼は329年「(前)趙」を滅ぼしたお方。
晋書 載記第四 石勒上に依ると
「石勒字世龍 初名㔨 上党武郷羯人也 其先匈奴別部羌渠之胄」と。
「上党(郡)武郷(県)」(現在の山西省晋中市楡社県)出身。
五部匈奴の「右部」がお住まい。因みに劉淵は「左部」で旗揚げ
「羯人」は「匈奴別部羌渠之胄(=血筋)」から
石勒は南匈奴の別部族で羌渠の血筋を引く方。要は匈奴人末裔です。
石勒の根拠地は襄国(現在の河北省邢台市)。
彼の跡目は甥の石虎(295~349在位334~349)。
338年(後)趙軍は「(前)燕」の根拠地、棘城(現在の遼寧省錦州市)
を大軍を率いて攻め入りますが(前)燕軍の必死の反撃を食らい
撤退を余儀なくされています。
(前)燕と常に刃を交えていた高句麗は「敵の敵は味方」で
「(後)趙」と「高句麗」はよしみを結んでいました。 
343年の「(前)燕」による「高句麗」殲滅はこの関連も。 続く。

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