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2021年2月27日 (土)

377年新羅 資治通鑑に登場 755

慕容皝は基本的に封裕の諫言を受け容れます。
これまで五胡十六国の内、
匈奴人、劉淵の「漢」と鮮卑人、慕容廆→慕容皝の「(前)燕」
匈奴人、石勒→石虎「(後)趙」の3カ国については紹介済みです。

「漢」を建国した劉淵
慕容廆→慕容皝の「(前)燕」
石勒→石虎「(後)趙」

残る13カ国ですが、倭国の隣国「新羅」が377年、中国文献に
登場する「(前)秦」が必要になります。

「烈宗孝武皇帝上之中太元二年(377年)
 春 高句麗 新羅 西南夷皆遣使入貢於(前)秦」
(資治通鑑 巻一百四 晋紀二十六)
*資治通鑑
中国の編年書。二九四巻。宋の司馬光(1019~1086)撰。
英宗の命で治平二年(1065)着手、元豊七年(1084)完成し
神宗に献上。はじめ「通志」と称したが、治世に役立ち、
為政上の鑑と賞され、勅号を賜わった。
戦国時代から五代末まで1362年間の編年通史で、
周紀に始まり後周紀で終わる。
「左氏伝」を手本に「春秋」の書きつぎを目し、
正史をはじめ実録、物語など三二二種を資料参考にしている。
(日本国語大辞典 小学館)
*英宗(1032~1067在位1063~1067)・・北宋の第5代皇帝
*神宗(1048~1085在位1067~1085)・・北宋の第6代皇帝
*北宋(960~1127)

「新羅」の(前)秦に対するこの貢納は
「史書、晋書 載記第十三 苻堅上」
には残念ながら記載されていないのです。
この件も今は昔、紹介していました。
「新羅 377年 前秦に朝貢」
「(後)趙」は石虎の死後(349年)内部分裂を来たし351年に崩壊。
翌年352年「前燕」軍により殲滅されています。
匈奴人劉淵が「漢」を再興したのですが
残念ながらこれにてお仕舞いです(death)。
その「(後)趙」が崩壊した同じ年、
351年氐族の苻健(317~355在位351~355)は独立、
長安を都として「(前)秦」を打ち立てます。 続く。

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2021年2月20日 (土)

高句麗・百済人は韓半島等へ 754

八王・永嘉の乱により荒廃した民百姓は安心・安全な地を求め彷徨う
中で、安住の地と思われた所が鮮卑人慕容廆が治める遼西でした。
そこの表現が
「先王(慕容廆)以神武聖略 保全一方 威以殄奸 徳以懐遠
 故九州之人 塞表殊類 繈負万里 若赤子之帰慈父
 流人之多旧土十倍有余 人殷地狹 故無田者十有四焉」
になります。遼西地域の戸数は以前に比して10倍を超えたとか。
以前、慕容廆について触れましたのでご確認を。
「中国東北部に鮮卑慕容部族」
「慕容廆 張華からお褒め言葉」
「匈奴・鮮卑・漢語など意思疎通は」
この次の描写では慕容皝の業績を褒めている箇所です。
「殿下(慕容皝)以英聖之資 克広先業 南摧強趙 東滅(高)句麗
 開境三千 戸増十万 継武闡広之功」
遼西から南に位置する敵対勢力の(後)趙を粉砕、
遼西・遼東から東にいる高句麗を殲滅し、
支配領域を増やし、住人も増加させました。
しかし、この状況だからこそ封裕は徳政を行うよう解きます。
次に
「(高)句麗 百済及宇文 段部之人 皆兵勢所徙
 非如中国慕義而至 咸有思帰之心 今戸垂十万 狹湊都城
 恐方将為国家深害 宜分其兄弟宗属 徙于西境諸城 撫之以恩
 検之以法 使不得散在居人 知国之虚実」
と展開します。
ここで封裕は忠告をします。
戦闘の結果、捕虜となり前燕に連れてこられた
高句麗・百済、宇文・段部族の人々は八王・永嘉の乱に依り
中国各地から遼西に好んで来た民百姓とは全く異なり、彼らは故郷に
帰りたい気持ちを持っています。(宇文・段部は鮮卑族の別部族)
前燕の都は現在沢山の人口を抱えています。
やがて、害が及ぶやも知れません。ここは宇文・段部族は「西境」に
高句麗・百済人は韓半島等へ「慰撫」を以て移動させる事がよいと。
この史書、晋書が倭と親交が深かった「百済」の初見です。
今は昔、「百済は晋書 載記 慕容皝で」でも紹介しました。 続く。

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2021年2月13日 (土)

記室参軍 封裕 慕容皝へ諫言 753

この後、「晋書 巻一百〇九 載記第九 慕容皝」に依ると、
「咸康七年(345年)) (慕容)皝遷都龍城」、
345年慕容皝(297~348在位337~348)は
「龍城(現在の中国遼寧省朝陽市)」に遷都。
又、この年「(慕容)皝記室参軍封裕諫曰」
記室参軍(秘書官)の「封裕(?~?)」が慕容皝に諫言しています。

「臣聞聖王之宰国也 薄賦而蔵于百姓 分之以三等之田
 十一而税之 寒者衣之 飢者食之 使家給人足  中略
 自永嘉喪乱 百姓流亡 中原蕭條 千里無煙 飢寒流隕 相継溝壑
 先王(慕容廆)以神武聖略 保全一方 威以殄奸 徳以懐遠
 故九州之人 塞表殊類 繈負万里 若赤子之帰慈父
 流人之多旧土十倍有余 人殷地狹 故無田者十有四焉
 殿下(慕容皝)以英聖之資 克広先業 南摧強趙 東滅(高)句麗
 開境三千 戸増十万 継武闡広之功 有高西伯 宜省罷諸苑
 以業流人 人至而無資産者 賜之以牧牛 人既殿下之人 牛豈失乎
 善蔵者蔵于百姓 若斯而已矣邇者深副楽土之望
 中国之人皆将壺餐奉迎 石季龍(石虎)誰与居乎
 且魏晋雖道消之世 猶削百姓不至於七八 持官牛田者官得六分
 百姓得四分 私牛而官田者与官中分 百姓安之 人皆悦楽
 臣猶曰非明王之道 而況増乎 且水旱之厄 堯湯所不免
 王者宜浚治溝澮 循鄭白 西門 史起溉灌之法 旱則決溝為雨
 水則入於溝涜 上無雲漢之憂 下無昏墊之患
 (高)句麗 百済及宇文 段部之人 皆兵勢所徙
 非如中国慕義而至 咸有思帰之心 今戸垂十万 狹湊都城
 恐方将為国家深害 宜分其兄弟宗属 徙于西境諸城 撫之以恩
 検之以法 使不得散在居人 知国之虚実
 今中原未平 資畜宜広 官司猥多 遊食不少 一夫不耕 歳受其飢
 必取於耕者而食之 一人食一人之力 游食数万 損亦如之
 安可以家給人足 治致升平 殿下降覧古今之事多矣
 政之巨患莫甚於斯 其有経略出世 才称時求者
 自可随須置之列位 非此已往 其耕而食 蚕而衣 亦天之道也」

封裕は「租税を安く」等、善政を布く事が優れた為政者の条件と
しています。
これは表層を述べたまでの似非観念で中華文化そのもの。
多分、彼は漢人系の血が濃いお方だったのでしょう。
「永嘉喪乱(永嘉の乱)」(304~316)以来
「百姓流亡 中原蕭條 千里無煙 飢寒流隕 相継溝壑」
民百姓は戦禍から逃れ流浪、漢文化発祥地は荒び、炊事は疎か、
飢えや寒さで命を落とすものが相継ぎました。 続く。

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2021年2月 6日 (土)

(前)燕・高句麗・(後)趙 752

313年(西)晋王朝崩壊に伴い、最東部に存在した「楽浪・帯方郡」が
消滅した件は以前お話ししました。
そして、旧楽浪・帯方郡地域は間隙を縫い「高句麗」が占拠します。
「高句麗」の根城は「丸都城(現在の中国吉林省集安市)」。
これに対峙したのがこの時期中国東北部遼西・東を支配地にした
鮮卑族慕容部の末裔、慕容廆(269~333)でした。
晋書は四夷として「高句麗」を記載していません。
記述されている箇所は「載記第八 慕容廆」で
「高句麗寇遼東 (慕容)廆遣衆撃敗之」等、以後、
各慕容氏の載記で散見されます。
基本的に「(前)燕」と「高句麗」は遼東・玄菟地域で戦闘を行い、
「高句麗」は常に敗戦の憂き目を味わっていた感じ。
壊滅的な大敗を食らわしたのは慕容廆の息子、慕容皝(297~348)。
343年慕容皝が高句麗王、釗(ショウ)(?~371在位331~371)の
居城、丸都城を大挙して撃破、釗は東方へ敗走、
翌年、弟を慕容皝の所へ送り、詫びを入れ、許しを請うたと。
(宝物を貢納、臣下に。)
但し、釗は懲りずに度々「(前)燕」にちょっかいを出していたとか。
この間、「漢」を建国した劉淵は既に亡くなっており、
劉淵の養子、劉曜(275?~329在位318~329)
洛陽、長安を殲滅、最終的に西晋を滅亡させたお方。(316年)
319年10月彼は「漢」から「(前)趙」へ国号を変更します。
ところが、同年11月「漢」の武将で劉曜と共に西晋を打倒した、
石勒(セキロク)(274~333在位319~333)が劉曜と袂を分かち
「(後)趙」王を称したのです。彼は329年「(前)趙」を滅ぼしたお方。
晋書 載記第四 石勒上に依ると
「石勒字世龍 初名㔨 上党武郷羯人也 其先匈奴別部羌渠之胄」と。
「上党(郡)武郷(県)」(現在の山西省晋中市楡社県)出身。
五部匈奴の「右部」がお住まい。因みに劉淵は「左部」で旗揚げ
「羯人」は「匈奴別部羌渠之胄(=血筋)」から
石勒は南匈奴の別部族で羌渠の血筋を引く方。要は匈奴人末裔です。
石勒の根拠地は襄国(現在の河北省邢台市)。
彼の跡目は甥の石虎(295~349在位334~349)。
338年(後)趙軍は「(前)燕」の根拠地、棘城(現在の遼寧省錦州市)
を大軍を率いて攻め入りますが(前)燕軍の必死の反撃を食らい
撤退を余儀なくされています。
(前)燕と常に刃を交えていた高句麗は「敵の敵は味方」で
「(後)趙」と「高句麗」はよしみを結んでいました。 
343年の「(前)燕」による「高句麗」殲滅はこの関連も。 続く。

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