匈奴・鮮卑・漢語など意思疎通は 748
ところで、これ迄、意思疎通に欠かせない「言語」に触れず
匈奴劉淵、鮮卑慕容廆について話を進めてきました。
(南)匈奴人達は曹操により山西高原に移住させられたので
漢人と接点がある匈奴人は「漢語」を習得できた筈。(逆も真)
当然、匈奴人同士は母国の「匈奴語」で語り合っていたと思われます。
しかし、「鮮卑語」を話す鮮卑族は基本的に漢人と接触はありません。
通訳を介すか、或いは、両語が分かる鮮卑人・漢人の存在無くして
互いに意思伝達は不可能です。
更に、漢人同士でも住む地域により「言語発音」が異なるのです。
従って、
慕容廆は彼の下に参集した民達に各々郡を設置、住まわせたのでは。
「(慕容)廆乃立郡以統流人 冀州人為冀陽郡 豫州人為成周郡
青州人為営丘郡 并州人為唐国郡」
(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
冀陽郡 → 冀州人(現在の河北・山西省)
成周郡 → 豫州人(現在の河南省)
営丘郡 → 青州人(現在の山東省中東部)
唐国郡 → 并州人(現在の山西省北部)
上記のように広範な地域から流人となり遼西地域へ逃れたのです。
多分、混成されたら互いに話が通じなかったと思われます。
上記の事象はこの時代に存在し東夷と云われた
夫余・裨離・粛慎・高句麗・馬韓・辰韓・弁韓・倭国等々の方々も同様。
基本的に厳密な国境観念がなく、各地域似寄り生活同志集団です。
特に、大陸住人にとり陸続きでなく、海を隔てた「倭」は全くの異邦人。
皆さん意思疎通にお困りではなかったのでしょうか?
接点(例えば諍い、商売等)はほんの一部の方々に委ねられ
静謐に暮らす方々には支障がなかったのかも知れません。
今日日は意志がある限り学習できますが、
当時は必要に駆られて会得せざるを得なかったと考えるのが自然?
とりわけこの問題はいつの世もついて回るのですが
とても難しさが伴います。この件は又、後に。 続く。
| 固定リンク
コメント