« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »

2020年12月12日 (土)

鮮卑族ファッション被髮・左衽 749

人望を集めた慕容廆は333年に他界し、
息子の慕容皝(ぼようこう 297~348)が後を継ぎます。

「封弈等以(慕容)皝任重位軽 宜称燕王 皝於是以咸康三年(337年)
 僭即王位 赦其境内」(晋書 巻一百〇九 載記第九 慕容皝)
337年配下「封弈」らが慕容皝に「燕王」と称えるよう進め、
慕容皝は東晋朝の許可無く王位を僭称、領内に恩赦を与えた。
これにより基本的に「(前)燕」成立とされています。
*前燕
中国、五胡十六国の一つ。三世紀末、鮮卑族の慕容廆の創建。
三三七年、子の皝が王を称し、以後、華北の中心に進出、
中国的国家体制をとり入れ国勢を拡大したが
三七〇年、三代で前秦の苻堅に滅ぼされた。
(日本国語大辞典 小学館)

完全に独立したのは慕容皝の息子、
慕容儁(ぼようしゅん 319~360)の時代。

「永和八年(352年)僭即皇帝位 大赦境内 建元曰元璽
 署置百官 中略 時朝廷遣使詣俊(=儁) 俊謂使者曰
 汝還白汝天子 我承人之乏 為中国所推 已為帝矣」
(晋書 巻一百十 載記第十 慕容儁)
慕容儁が東晋遣使に告げたのです。
352年「建康(南京)に還った際、私は領内に住まう人々に推挙され
 帝(諡号は景昭帝)になったと天子に伝えよ」と。
この天子は5代目皇帝、穆帝(343~361在位344~361)。
これ以前にも、配下達に皇帝位着任を要望されますが断っています。
気になるのはここの記述も「僭」となっています。
慕容儁は東晋遣使に独立を伝言してますので僭称になりません。
鮮卑族出身の唐王朝、「史書」編纂指示は素晴らしかったのですが、
「劉淵漢王位へ異議申し立て」をご確認を。
匈奴劉淵の漢王位僭称はまだ理解できます。
しかし、慕容儁は間違いなく鮮卑族ですよ。
ひょっとして、
皇帝、李世民は編纂後ご自分で確認をされなかったようですね。

又、この独立伝言以前、臣下達に皇帝位になるよう薦められますが
彼は一度断っています。
ここの記載では鮮卑慕容儁の人柄が垣間見えます。
「吾本幽漠射猟之郷 被髮左衽之俗 歴数之籙(=書物)寧有分邪
 卿等苟相褒挙 以覬非望 実匪寡徳所宜聞也」
(晋書 巻一百十 載記第十 慕容儁)
「吾々はその昔(檀石槐時代から)、
 幽州(現在の河北・遼寧省、北京・天津市地域)~ゴビ砂漠を
 故郷とし主に狩猟等をして生活をしていた。身なりは「被髮・左衽」。
 皆は私を褒め皇帝に推挙するが、
 私には徳がないから聞き及ばない」と。
*被髮・・ざんばら髪
*左衽(さじん)
1衣服の右の衽(おくみ)を、左の衽の上に重ねて着ること。左前。
2(中国で、衣服を左前に着るのを夷狄の習俗としたところから)
 衣服を左前に着て、野蛮人の風俗をすること。
(日本国語大辞典 小学館)
かの時代の「漢人」もご自分達の風習が№1と考える慣習を
お持ちだったと覗われます。(漢人につきましては後に)
鮮卑族の風俗ファッション、ストレートヘアーと左前(婦人服仕立て)、
全く問題はありません。
他族からとやかく云われる筋合いのものではありません。
この「左前」につきましては2006年1月20日出稿で触れました。
「襟が左前って素敵っ?」をご確認下さい。
ここで再度整理しておきます。
左衽(左前)・・・婦人服仕立て 鮮卑服
右衽(右前)・・・紳士服仕立て 和服

ところで、今年もお世話になりました。
2020年度の出稿は本日でお仕舞いです。
コロナ禍のおり、皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。
 続く。

| | コメント (0)

2020年12月 5日 (土)

匈奴・鮮卑・漢語など意思疎通は 748

ところで、これ迄、意思疎通に欠かせない「言語」に触れず
匈奴劉淵、鮮卑慕容廆について話を進めてきました。
(南)匈奴人達は曹操により山西高原に移住させられたので
漢人と接点がある匈奴人は「漢語」を習得できた筈。(逆も真)
当然、匈奴人同士は母国の「匈奴語」で語り合っていたと思われます。
しかし、「鮮卑語」を話す鮮卑族は基本的に漢人と接触はありません。
通訳を介すか、或いは、両語が分かる鮮卑人・漢人の存在無くして
互いに意思伝達は不可能です。
更に、漢人同士でも住む地域により「言語発音」が異なるのです。
従って、
慕容廆は彼の下に参集した民達に各々郡を設置、住まわせたのでは。

「(慕容)廆乃立郡以統流人 冀州人為冀陽郡 豫州人為成周郡
 青州人為営丘郡 并州人為唐国郡」
(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
冀陽郡 → 冀州人(現在の河北・山西省)
成周郡 → 豫州人(現在の河南省)
営丘郡 → 青州人(現在の山東省中東部)
唐国郡 → 并州人(現在の山西省北部)

上記のように広範な地域から流人となり遼西地域へ逃れたのです。
多分、混成されたら互いに話が通じなかったと思われます。
上記の事象はこの時代に存在し東夷と云われた
夫余・裨離・粛慎・高句麗・馬韓・辰韓・弁韓・倭国等々の方々も同様。
基本的に厳密な国境観念がなく、各地域似寄り生活同志集団です。
特に、大陸住人にとり陸続きでなく、海を隔てた「倭」は全くの異邦人。
皆さん意思疎通にお困りではなかったのでしょうか?
接点(例えば諍い、商売等)はほんの一部の方々に委ねられ
静謐に暮らす方々には支障がなかったのかも知れません。
今日日は意志がある限り学習できますが、
当時は必要に駆られて会得せざるを得なかったと考えるのが自然?
とりわけこの問題はいつの世もついて回るのですが
とても難しさが伴います。この件は又、後に。 続く。

| | コメント (0)

« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »