三皇五帝三王越えの漢王朝 744
今週も「晋書(劉元海=劉淵)」編纂者の見解・脚色・偏見です。
劉淵「漢」建国声明
ここでの劉淵の建国声明ですが、
まさに編纂者の見解・脚色・偏見に溢れた独断では。
編纂者は正史、「史記」・「漢書」・「後漢書」・「三国志」を精読し
更に、これら以外の文献にも当然、目を通していた筈です。
劉淵は正史に於いては「史記」・「漢書」・「三国志」のみ。
「後漢書」は成立年から目にできていません。
彼は確かに詩経・易経・書経を教わり習い、
「春秋左氏伝」(春秋時代「魯(B.C.722~B.C.468)」の歴史書)、
「孫子」・「呉子」(兵法書)を諳んじていた程でした。
従って、劉淵は通史として「史記」~「漢書」、「三国志」で、
後漢時代について他の書物を通して知り得ていたとしか思えません。
この「春秋左氏伝」は「史記」に依ると
「魯君子左丘明懼弟子人人異端 各安其意 失其真
故因孔子史記具論其語 成左氏春秋」
(巻十四 十二諸侯年表第二)
とあり「左丘明」が著者とされています。(異説有り)
「左丘明」は儒家の始祖、「孔子」と同時代の方と。
*孔子(B.C.551頃~B.C.479)
中国、春秋時代の学者、思想家。
名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。
魯の昌平郷陬邑(すうゆう)(=山東省曲阜県)に生まれる。
大司寇(だいしこう)として魯に仕えたが、いれられず、
辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、
約一四年間、七十余国を歴訪、遊説。
聖王の道を総合大成し、仁を理想とする道徳主義を説いて、
徳治政治を強調した。晩年、教育と著述に専念し、六経(りくけい)、
すなわち易、書、詩、礼、楽、春秋を選択編定したとされる。
後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)
にまつられ、近代に至るまで非常な尊敬を受けた。
(日本国語大辞典 小学館)
編纂者は匈奴冒頓単于と漢高祖劉邦との「兄弟の契り」を重視。
司馬遷編纂の「史記」を否定、(劉淵の建国声明との形を借り)
初めて中国大陸全域を統一した
秦(China)の「始皇帝」には一切触れず、
はたまたChina創世神話登場の「三皇(天皇・地皇・泰皇)」も無視、
「五帝」、「三王(夏・商<殷>・周の始祖王)」よりも秦王朝を倒して
漢王朝を開いた「太祖高皇帝(=劉邦)」、及び、「5文帝(=劉恒)」、
「7武帝(=劉徹)」、「9宣帝(=劉詢)」が優れていて功績が高いと
言わしめています。 続く。
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