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2020年11月14日 (土)

疲弊した晋朝打倒決起集会 745

「晋書(劉元海=劉淵)」編纂者は更に劉淵に語らせます。
「劉淵 漢王朝の歴史確認」をご確認下さい。
漢王朝は王莽のクーデターで一時途切れます。
しかしながら、紆余曲折を経て劉秀(=光武帝)が政権奪還、
漢王朝を復活させてます。
光武帝時代に
「南・北匈奴に分裂(48年)」「倭奴国王遣使奉献(57年)」
以後、孝明帝 ⇒ 孝章帝 と続き、
孝和帝時代に「北匈奴崩壊(91年)」
孝安帝時代に「倭国遣使奉献(107年)」
と匈奴・倭人情報が後の史書に記載されています。
この後に続く皇帝名は端折られ、黄巾賊・董卓・曹操父子らが登場、
いつの間にやら後漢が消滅、いわゆる蜀漢の昭烈帝(=劉備)
後帝(=劉禅)が紹介される展開。
やがて、蜀漢も崩壊(263年)、晋朝内部分裂の最中、
蜀漢瓦解の約40年後(304年)、劉淵の「漢」再興と続くのです。
前漢(劉邦)、後漢(劉秀)、蜀漢(劉備)、
各創始者の偉業を匈奴末裔、劉淵が引き継ぐ形で表明させています。
これらは、先週の「三皇五帝三王越えの漢王朝」を含め、あくまでも
晋書編纂者の勝手な「思い込み」に過ぎません。
劉淵が五部匈奴、及び、晋朝見限り者らを前にした
「漢再興」宣言内容とは決して考えられません。
この時点で晋朝は壊滅的状況を来していますが、滅亡していません。
劉淵の言葉としては「漢」として「晋朝からの独立宣言」で、
この場は「疲弊した晋朝打倒」決起集会だったと考えるのが自然では。
中国史ではこの独立宣言を以て、
「五胡十六国時代」の始まりとしています。
劉淵はこの後、各地方、及び、晋朝の都、洛陽へ侵攻。
308年皇帝として即位しますが晋朝滅亡を見ず病で
310年崩御します。
彼の生年が不明でこの世に何年存在されたかは分かりません。
その後、漢朝は313年に洛陽を占拠、
316年に晋朝(司馬炎血脈断絶<317年>)が瓦解しています。
但し、317年建康(現在の南京)にて司馬懿の曽孫、
司馬睿(276~322在位317~322)が東晋朝を立ち上げます。 続く。

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