慕容廆 張華からお褒め言葉 747
慕容廆は遼西の棘(キョク)城(現在の遼寧省錦州市)生まれです。
(近現代、軍閥の張学良(1901~2001)の根拠地)
「慕容廆 字弈洛瑰 昌黎棘城鮮卑人也 其先有熊氏之苗裔
世居北夷 邑于紫蒙之野 号曰東胡 其後与匈奴並盛
控弦之士二十余万 風俗官号与匈奴略同 秦漢之際為匈奴所敗
分保鮮卑山 因以為号」(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
*昌黎
中国の河北省通県の東部にある地名。山海関の南西にあたる。
*山海関
中国、河北省の北東端、秦皇島市の北東部にある関門の名。
燕山山脈が渤海湾に迫る要害の地で、万里の長城の東端にあたり、
古来、天下第一関と称された。明代の初め関城を築き、
山海衛を置いたことからこの名が起こった。
(日本国語大辞典 小学館)
晋書の内容は今までお話してきた事が記述されています。
「廆幼而魁岸 美姿貌 身長八尺 雄傑有大度
安北将軍張華雅有知人之鑑 廆童丱時往謁之 華甚歎異
謂曰 君至長必為命世之器 匡難済時者也」
(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
慕容廆はイケメンで立端が高く、(嘘か誠かは不明)
なな何と、あの「張華」と面識があり、
「成長したら秀でた人となり、災いを正し、時節を救う者だ」と
張華からお褒めの言葉貰っているのです。
時は張華が左遷され、故郷、幽州にて
東北方面郡総司令官(持節 都督幽州諸軍事 領烏桓校尉 安北将軍)
の仕事をいていた際。(282~288年の間)
*幽州・・現在の河北・遼寧省、北京・天津市地域
少年の頃、張華に評価された慕容廆は大人になると彼の予想通りの
人物になります。礼儀正しく、武力に長け、民を慰撫しました。
やがて、慕容廆は周辺から慕われ彼の下に逃れてくる他部鮮卑族、
(西)晋官僚ら、それらに属する領民らをも厚く持て成しました。
彼は匈奴劉淵のように(西)晋から独立を考えず、
服属する立場を取ります。(西)晋消滅後は(東)晋にも従属します。
(東)晋朝からは東北方面郡総司令官の地位等を与えられる迄に。
続く。
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