中国東北部に鮮卑慕容部族 746
漢朝により晋朝の都、洛陽を落とされた同じ年(313年)、
楽浪・帯方郡は晋朝の施政化でなくなり、消滅します。
「前晋朝倒れ 楽浪・帯方郡から撤退」でご確認下さい。
楽浪・帯方郡を管轄していた張統は民を引き連れ、
慕容廆(ぼようかい)(269~333)の下へ。
慕容廆は当時の鮮卑慕容部族長。
鮮卑族の件は以前、
「北匈奴滅び檀石槐が鮮卑帝国」で少し紹介しました。
B.C.200頃、匈奴族の冒頓単于が
東胡制圧・漢と和睦・月氏部族らを
制圧しアジア大陸最大帝国にしました。
生き残った東胡族は大興安嶺まで逃走、
鮮卑族・烏丸(桓)族と中国により後に名称変更されます。
*大興安嶺(だいこうあんれい)
中国内モンゴル自治区北東部の大山脈(日本国語大辞典 小学館)
「冒頓単于は合理→冷静沈着」
「冒頓単于が匈奴を大強国に」をご確認下さい。
時の経過と共に匈奴部族が分裂、
「兄弟分裂で南匈奴と北匈奴に」で。
170年頃、鮮卑部族長、檀石槐が匈奴族の冒頓単于が統治した地域を
再統一したのです。
鮮卑慕容部族は中部(現在の北京市北部地域)を担当。
やがて、その鮮卑帝国も内部分裂、各部族・同部族同士の諍いに。
後漢 → 魏 → 晋と時の流れとともに、鮮卑・烏丸(桓)族らは
南匈奴同様、各権力者・軍閥の傭兵として重宝されるのです。
「明帝、燕王 公孫淵征討決意」にて。
そして、晋朝瓦解状況に伴い、匈奴の末裔劉淵が漢を復興し
「五胡十六国時代」に突入した時期に
中国東北部(現在の遼寧省等)を根拠地にしていた
鮮卑族慕容部の末裔、慕容廆が人望を集め強力な軍団になるのです。
続く。
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