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2020年11月28日 (土)

慕容廆 張華からお褒め言葉 747

慕容廆は遼西の棘(キョク)城(現在の遼寧省錦州市)生まれです。
(近現代、軍閥の張学良(1901~2001)の根拠地)

「慕容廆 字弈洛瑰 昌黎棘城鮮卑人也 其先有熊氏之苗裔
 世居北夷 邑于紫蒙之野 号曰東胡 其後与匈奴並盛
 控弦之士二十余万 風俗官号与匈奴略同 秦漢之際為匈奴所敗
 分保鮮卑山 因以為号」(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
*昌黎
中国の河北省通県の東部にある地名。山海関の南西にあたる。
*山海関
中国、河北省の北東端、秦皇島市の北東部にある関門の名。
燕山山脈が渤海湾に迫る要害の地で、万里の長城の東端にあたり、
古来、天下第一関と称された。明代の初め関城を築き、
山海衛を置いたことからこの名が起こった。
(日本国語大辞典 小学館)
晋書の内容は今までお話してきた事が記述されています。

「廆幼而魁岸 美姿貌 身長八尺 雄傑有大度
 安北将軍張華雅有知人之鑑 廆童丱時往謁之 華甚歎異
 謂曰 君至長必為命世之器 匡難済時者也」
(晋書 巻一百〇八 載記第八 慕容廆)
慕容廆はイケメンで立端が高く、(嘘か誠かは不明)
なな何と、あの「張華」と面識があり、
「成長したら秀でた人となり、災いを正し、時節を救う者だ」と
張華からお褒めの言葉貰っているのです。
時は張華が左遷され、故郷、幽州にて
東北方面郡総司令官(持節 都督幽州諸軍事 領烏桓校尉 安北将軍)
の仕事をいていた際。(282~288年の間)
*幽州・・現在の河北・遼寧省、北京・天津市地域

少年の頃、張華に評価された慕容廆は大人になると彼の予想通りの
人物になります。礼儀正しく、武力に長け、民を慰撫しました。
やがて、慕容廆は周辺から慕われ彼の下に逃れてくる他部鮮卑族、
(西)晋官僚ら、それらに属する領民らをも厚く持て成しました。
彼は匈奴劉淵のように(西)晋から独立を考えず、
服属する立場を取ります。(西)晋消滅後は(東)晋にも従属します。
(東)晋朝からは東北方面郡総司令官の地位等を与えられる迄に。
 続く。

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2020年11月21日 (土)

中国東北部に鮮卑慕容部族 746

漢朝により晋朝の都、洛陽を落とされた同じ年(313年)、
楽浪・帯方郡は晋朝の施政化でなくなり、消滅します。
「前晋朝倒れ 楽浪・帯方郡から撤退」でご確認下さい。
楽浪・帯方郡を管轄していた張統は民を引き連れ、
慕容廆(ぼようかい)(269~333)の下へ。
慕容廆は当時の鮮卑慕容部族長。
鮮卑族の件は以前、
「北匈奴滅び檀石槐が鮮卑帝国」で少し紹介しました。
B.C.200頃、匈奴族の冒頓単于が
東胡制圧・漢と和睦・月氏部族らを
制圧しアジア大陸最大帝国にしました。
生き残った東胡族は大興安嶺まで逃走、
鮮卑族・烏丸(桓)族と中国により後に名称変更されます。
*大興安嶺(だいこうあんれい)
中国内モンゴル自治区北東部の大山脈(日本国語大辞典 小学館)
「冒頓単于は合理→冷静沈着」
「冒頓単于が匈奴を大強国に」をご確認下さい。
時の経過と共に匈奴部族が分裂、
「兄弟分裂で南匈奴と北匈奴に」で。
170年頃、鮮卑部族長、檀石槐が匈奴族の冒頓単于が統治した地域を
再統一したのです。
鮮卑慕容部族は中部(現在の北京市北部地域)を担当。
やがて、その鮮卑帝国も内部分裂、各部族・同部族同士の諍いに。
後漢 → 魏 → 晋と時の流れとともに、鮮卑・烏丸(桓)族らは
南匈奴同様、各権力者・軍閥の傭兵として重宝されるのです。
「明帝、燕王 公孫淵征討決意」にて。
そして、晋朝瓦解状況に伴い、匈奴の末裔劉淵が漢を復興し
「五胡十六国時代」に突入した時期に
中国東北部(現在の遼寧省等)を根拠地にしていた
鮮卑族慕容部の末裔、慕容廆が人望を集め強力な軍団になるのです。
 続く。

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2020年11月14日 (土)

疲弊した晋朝打倒決起集会 745

「晋書(劉元海=劉淵)」編纂者は更に劉淵に語らせます。
「劉淵 漢王朝の歴史確認」をご確認下さい。
漢王朝は王莽のクーデターで一時途切れます。
しかしながら、紆余曲折を経て劉秀(=光武帝)が政権奪還、
漢王朝を復活させてます。
光武帝時代に
「南・北匈奴に分裂(48年)」「倭奴国王遣使奉献(57年)」
以後、孝明帝 ⇒ 孝章帝 と続き、
孝和帝時代に「北匈奴崩壊(91年)」
孝安帝時代に「倭国遣使奉献(107年)」
と匈奴・倭人情報が後の史書に記載されています。
この後に続く皇帝名は端折られ、黄巾賊・董卓・曹操父子らが登場、
いつの間にやら後漢が消滅、いわゆる蜀漢の昭烈帝(=劉備)
後帝(=劉禅)が紹介される展開。
やがて、蜀漢も崩壊(263年)、晋朝内部分裂の最中、
蜀漢瓦解の約40年後(304年)、劉淵の「漢」再興と続くのです。
前漢(劉邦)、後漢(劉秀)、蜀漢(劉備)、
各創始者の偉業を匈奴末裔、劉淵が引き継ぐ形で表明させています。
これらは、先週の「三皇五帝三王越えの漢王朝」を含め、あくまでも
晋書編纂者の勝手な「思い込み」に過ぎません。
劉淵が五部匈奴、及び、晋朝見限り者らを前にした
「漢再興」宣言内容とは決して考えられません。
この時点で晋朝は壊滅的状況を来していますが、滅亡していません。
劉淵の言葉としては「漢」として「晋朝からの独立宣言」で、
この場は「疲弊した晋朝打倒」決起集会だったと考えるのが自然では。
中国史ではこの独立宣言を以て、
「五胡十六国時代」の始まりとしています。
劉淵はこの後、各地方、及び、晋朝の都、洛陽へ侵攻。
308年皇帝として即位しますが晋朝滅亡を見ず病で
310年崩御します。
彼の生年が不明でこの世に何年存在されたかは分かりません。
その後、漢朝は313年に洛陽を占拠、
316年に晋朝(司馬炎血脈断絶<317年>)が瓦解しています。
但し、317年建康(現在の南京)にて司馬懿の曽孫、
司馬睿(276~322在位317~322)が東晋朝を立ち上げます。 続く。

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2020年11月 7日 (土)

三皇五帝三王越えの漢王朝 744

今週も「晋書(劉元海=劉淵)」編纂者の見解・脚色・偏見です。

劉淵「漢」建国声明
ここでの劉淵の建国声明ですが、
まさに編纂者の見解・脚色・偏見に溢れた独断では。
編纂者は正史、「史記」・「漢書」・「後漢書」・「三国志」を精読し
更に、これら以外の文献にも当然、目を通していた筈です。
劉淵は正史に於いては「史記」・「漢書」・「三国志」のみ。
「後漢書」は成立年から目にできていません。
彼は確かに詩経・易経・書経を教わり習い、
「春秋左氏伝」(春秋時代「魯(B.C.722~B.C.468)」の歴史書)、
「孫子」・「呉子」(兵法書)を諳んじていた程でした。
従って、劉淵は通史として「史記」~「漢書」、「三国志」で、
後漢時代について他の書物を通して知り得ていたとしか思えません。
この「春秋左氏伝」は「史記」に依ると
「魯君子左丘明懼弟子人人異端 各安其意 失其真
 故因孔子史記具論其語 成左氏春秋」
(巻十四 十二諸侯年表第二)
とあり「左丘明」が著者とされています。(異説有り)
「左丘明」は儒家の始祖、「孔子」と同時代の方と。
*孔子(B.C.551頃~B.C.479)
中国、春秋時代の学者、思想家。
名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。
魯の昌平郷陬邑(すうゆう)(=山東省曲阜県)に生まれる。
大司寇(だいしこう)として魯に仕えたが、いれられず、
辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、
約一四年間、七十余国を歴訪、遊説。
聖王の道を総合大成し、仁を理想とする道徳主義を説いて、
徳治政治を強調した。晩年、教育と著述に専念し、六経(りくけい)、
すなわち易、書、詩、礼、楽、春秋を選択編定したとされる。
後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)
にまつられ、近代に至るまで非常な尊敬を受けた。
(日本国語大辞典 小学館)
編纂者は匈奴冒頓単于と漢高祖劉邦との「兄弟の契り」を重視。
司馬遷編纂の「史記」を否定、(劉淵の建国声明との形を借り)
初めて中国大陸全域を統一した
秦(China)の「始皇帝」には一切触れず、
はたまたChina創世神話登場の「三皇(天皇・地皇・泰皇)」も無視、
「五帝」、「三王(夏・商<殷>・周の始祖王)」よりも秦王朝を倒して
漢王朝を開いた「太祖高皇帝(=劉邦)」、及び、「5文帝(=劉恒)」、
「7武帝(=劉徹)」、「9宣帝(=劉詢)」が優れていて功績が高いと
言わしめています。 続く。

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