劉淵 漢王朝の歴史確認 741
「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
先週に引き続き、漢王朝の歴史が綴られます。
「元帝(=劉奭)(B.C.74~B.C.33在B.C.48~B.C.33)」
「成帝(=劉驁)(B.C.51~B.C.07在B.C.33~B.C.07)」は
「僻(素直に受け取らず穿って考える)」性癖が多かったし、
「哀帝(=劉欣)(B.C.25~B.C.01在B.C.07~B.C.01)」
「平帝(=劉欣)(B.C.09~A.D.05在B.C.01~A.D.05)」は
「祚(歳・齢)」が若かった為、「賊臣王莽 滔天簒逆」。
この間の経緯は
「王莽 大司馬~摂皇帝に」「王政君崩御 地球寒冷化?」で。
「世祖光武皇帝(=劉秀)(B.C.06~A.D.57 在A.D.25~A.D.57)」は
漢王朝を復活。
「顕宗孝明皇帝(=劉荘)(28~75 在位57~75)」
「肅宗孝章皇帝(=劉炟)(57~88 在位75~88)」は
劉氏一族の「炎光」を再び輝かせた。
「和帝(=劉肇)(79~105 在位88~105)」
「安帝(=劉祜)(94~125 在位106~125)」以降は
「皇綱漸頹(政治崩壊)」「天歩艱難(天運困窮)」
「国統頻絶(統治悶絶)」「黄巾海沸於九州(黄巾族の全国跋扈)」
「黄群閹毒流于四海(黄巾族・宦官の天下騒乱)」
「董卓因之肆其猖勃」は
「三国志 最初の悪者 董卓登場」
「董卓 洛陽着 小帝弁探索」
「董卓 陳留王を帝位に」
「董卓 養子の呂布に殺害される」でご確認を。
「献帝(=劉協)(181~234 在位189~220)」は
「204年公孫康が帯方郡設置」
「死諸葛(孔明)走生(司馬懿)仲達」
「昭烈帝(=劉備)(161~223在位221~223)」は
蜀(現在の四川省+重慶市)の「岷(山)」を根拠地にし漢王朝を死守
白帝城(現在の重慶市奉節県)にて後を諸葛亮に託し崩御。
「後帝(=劉禅)(207~271在位223~263)」は
魏軍との戦闘に蜀軍は敗北・降伏、囚われの身に。 続く。
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