劉淵 劉備絶賛 漢王即位 740
「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
劉淵が云うには
「帝王」は常に存在するものであろうか。
「大禹(夏后)」の出自は「西戎」、「(周の)文王(姫昌)」は「東夷」。
彼らは「徳」を授かったから帝王になり得た。
今、私は10万の兵を擁す、匈奴兵の強さは晋兵の10倍。
従って、晋を滅ぼすことは可能。
最上なら「漢高(漢の高祖=劉邦)」の偉業に
最低でも「魏氏(曹操)」以上だ。
だが、「晋人」は我が匈奴人とは未だ異なる。
「漢」の時代は長かった。(B.C.206~8 25~220 221~263)計453年間
その「恩徳」は彼・彼女ら心に刻まれている。
それ故、劉備は一州(益州)の地でも「天下」取りに絡めた。
吾れ匈奴は「漢・劉一族の甥」、匈奴と漢は兄弟の契りを結んでいる。
兄が亡くなったら、弟が受け継ぐのは道理。
従って、「漢」を国号とし、「後主(劉禅)」を孝懐帝と追尊、
*劉禅・・劉備の息子(207~271在223~263) (蜀)漢の第2代皇帝
漢人にも匈奴へ人望を寄せて貰おうではないか。
これを聞き及んだ遠方の方々は、劉淵の下に数万人参集したと。
304年劉淵は都の南側郊外に祭壇を設け祭祀を行い
「漢王」に即位、宣誓。 (「僭即漢王位」については後程)
昔、我が
「太祖高皇帝(=劉邦)(B.C.256~B.C.195在B.C.202~B.C.195)」は
「神武」を以て漢王朝を開き、
*神武・・この上もなくすぐれた武徳。(日本国語大辞典 小学館)
「太宗孝文皇帝(=劉恒)(B.C.203~B.C.157在B.C.180~B.C.157)」は
「明德」を重んじ、漢安定に貢献、
「世宗孝武皇帝(=劉徹)(B.C.156~B.C.87在B.C.141~B.C.87)」は
南蛮・東夷・西戎・北狄を武力制圧、領土を拡張、
「中宗孝宣皇帝(=劉詢)(B.C.91~B.C.49在B.C.74~B.C.49)」は
各地に優秀人材を捜し求め、朝廷に任官させた。
これら我が祖先皇帝は「三王」より優れ、「五帝」の功績より高い。
*三王
夏王朝の始祖、禹王 B.C.1900頃~B.C.1600頃
商王朝の始祖、湯王 B.C.1600頃~B.C.1046頃
周王朝の始祖、武王 B.C.1046頃~B.C.771(西周) (東周B.C.256)
*五帝(史記)・・中国古代の伝説上の帝王
黄帝
顓頊(センギョク)
嚳(コク)
尭(ギョウ)
舜(シュン)
史記 巻一 五帝本紀第一
「自黄帝至舜 禹 皆同姓而異其国号 以章明德
故黄帝為有熊 帝顓頊為高陽 帝嚳為高辛 帝堯為陶唐
帝舜為有虞 帝禹為夏后而別氏 姓姒氏
契為商(=殷) 姓子氏 棄為周 姓姫氏」
従って、「漢(前・後・蜀漢で通期453年)」は
「夏(約300年)・商(約550年)」の倍の年数を与えられ、
「姫氏(=周)(約275年)」よりも長かった。
と「晋書」に記載されていますので、初唐時代には「夏・商・周」時代の
明確な認識がなかった事に。 取り急ぎ「漢王朝」が№1と。 続く。
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