劉淵漢王位へ異議申し立て 742
「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
263年劉禅捕虜後、漢王朝の「社(土地神)稷(穀物神)」祭壇、及び、
「宗廟(祖先祭祀廟)」は40年も祀られていない始末。
天はこれを憂い、司馬氏一族互いの騒乱を為さしめた。
晋の領民、庶民は塗炭の苦しみに喘いでいる。
従って、私は皆に推され「三祖(劉邦・劉秀・劉備)之業」を受け継ぐ。
ここに、劉淵は漢王朝復活を表明したのです。
この後、領内ご赦免、年号を「元熙」に、劉禅に「孝懷皇帝」と「追尊」
妻(「呼延氏」)を「王后」に、「百官(諸々の文武官僚)」を任命へ。
ここ迄、「晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵」を読み解いて
きました。「晋書」は唐王朝〈618~907〉時代の648年、
房玄齢(578~648)・李延寿らによって編纂されたとされています。
「劉元海=劉淵」の条はどちら様がご担当されたかは不明です。
ここで、保留していました「僭即漢王位」の件に。
「僭」の意味合いは身分不相応で自称となります。
と云うことは、
「晋書」編纂者は劉淵の漢王位を認めない旨の著述となります。
隋政権を滅ぼし唐を建国した
「李淵(566~635在位618~626)」は鮮卑系(異説有り)。
劉淵は紛れもなく匈奴系。
両者は漢から「北狄」と蔑称された遊牧狩猟騎馬民族が祖です。
「晋書」の編纂命令を下したのは
李淵の息子「李世民(597~649在位626~649)」。
彼は当時モンゴル高原に住んでいた「東突厥」を服従させています。
*突厥(トッケツ)
六世紀中頃から、約二世紀間、モンゴル高原・中央アジアを支配
したトルコ系遊牧部族と、その国家。六世紀末、東西に分裂。
東突厥はモンゴル高原を支配し、六三〇年、唐に滅ぼされたが、
七世紀末に再興、八世紀なかばに滅亡した。
西突厥は中央アジアを支配し、七世紀中頃、唐に圧迫され、
七世紀末に滅亡。(日本国語大辞典 小学館)
李世民は「唐王朝」を「漢王朝」再来幻想に浸りきっていたのでしょう。
中国大陸統一を果たせなかった劉淵を上から目線で観ていたのやも。
まさか、昔々、匈奴冒頓単于による東胡(鮮卑族の祖)滅亡伝承が
頭をよぎったとも思えませんが・・・・・?
李世民(鮮卑系)の劉淵(匈奴人)に対する単なる異議申し立て。
いつの世も、
知力・武力・財力に勝る者が持たざる者を服属させるのです。 続く。
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