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2020年10月31日 (土)

劉淵と司馬頴の会話脚色 743

ところで、「晋書」編纂者は
漢王劉淵の企図・心情をまるで観てきたように記述してます。
これらから編纂者の見解・脚色・偏見が窺えます。
そちらをちょいと検証してみます。

劉宣らの密かな謀議
編纂者の見解は匈奴国再興の企図発端は劉宣らとしています。
しかし、劉宣ら謀議は後先が逆になっています。
晋王朝の内乱情報は中央に留め置かれている劉淵が得やすい事。
五部匈奴地域でを実質束ねる立場の劉淵の叔祖父、劉宣らが
劉淵の意向を確認に触れず大単于とした事。
これらから劉淵が劉宣らに匈奴独立準備を指示していた思われます。
これを否定すると匈奴独立企画は劉宣らの主導になってしまいます。

劉淵と司馬頴との遣り取り
この二人の会話は正に脚色では。
司馬頴に対する劉淵のおべっか・よいしょ・お褒め殺し
まさに、現地のいたかのような実況生中継。
実際、二人が顔を付き合わせて会話をした事さえ不明。
あくまでも事後歴史経過、
1 劉淵が司馬頴の根拠地「鄴」を脱出、故郷「左国城」へ帰還事実。
2 旧東胡(「鮮卑・烏丸」)族の晋軍閥傭兵として軍事能力傑出事実。
3 旧南匈奴(「五部匈奴」)が劉淵を大単于として結集できた事実。
4 司馬頴が「鄴」で司馬騰・王浚軍に敗北、恵帝と洛陽へ敗走事実。
5 劉淵の晋王朝からの独立声明事実。
これらを踏まえてドラマチックに文学作品として仕上げた夢物語。
この編纂者はさしずめ麒麟がくるの脚本「池端俊策」氏もどきのお方。
しかしながら、真実は劉淵と司馬頴のお二人だけの胸の内にしか。
各王朝の正統性を描く「正史」としてこの箇所は如何なものかとも。
しかし、歴史経過事実を歪曲しているわけではありませんので・・・。
*正史
中国、古代から明まで各時代の、もっとも正統と認められた
紀伝体の歴史書。(日本国語大辞典 小学館)
 続く。

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2020年10月24日 (土)

劉淵漢王位へ異議申し立て 742

「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
263年劉禅捕虜後、漢王朝の「社(土地神)稷(穀物神)」祭壇、及び、
「宗廟(祖先祭祀廟)」は40年も祀られていない始末。
天はこれを憂い、司馬氏一族互いの騒乱を為さしめた。
晋の領民、庶民は塗炭の苦しみに喘いでいる。
従って、私は皆に推され「三祖(劉邦・劉秀・劉備)之業」を受け継ぐ。

ここに、劉淵は漢王朝復活を表明したのです。
この後、領内ご赦免、年号を「元熙」に、劉禅に「孝懷皇帝」と「追尊」
妻(「呼延氏」)を「王后」に、「百官(諸々の文武官僚)」を任命へ。

ここ迄、「晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵」を読み解いて
きました。「晋書」は唐王朝〈618~907〉時代の648年、
房玄齢(578~648)・李延寿らによって編纂されたとされています。
「劉元海=劉淵」の条はどちら様がご担当されたかは不明です。
ここで、保留していました「僭即漢王位」の件に。
「僭」の意味合いは身分不相応で自称となります。
と云うことは、
「晋書」編纂者は劉淵の漢王位を認めない旨の著述となります。
隋政権を滅ぼし唐を建国した
「李淵(566~635在位618~626)」は鮮卑系(異説有り)。
劉淵は紛れもなく匈奴系。
両者は漢から「北狄」と蔑称された遊牧狩猟騎馬民族が祖です。
「晋書」の編纂命令を下したのは
李淵の息子「李世民(597~649在位626~649)」。
彼は当時モンゴル高原に住んでいた「東突厥」を服従させています。
*突厥(トッケツ)
六世紀中頃から、約二世紀間、モンゴル高原・中央アジアを支配
したトルコ系遊牧部族と、その国家。六世紀末、東西に分裂。
東突厥はモンゴル高原を支配し、六三〇年、唐に滅ぼされたが、
七世紀末に再興、八世紀なかばに滅亡した。
西突厥は中央アジアを支配し、七世紀中頃、唐に圧迫され、
七世紀末に滅亡。(日本国語大辞典 小学館)

李世民は「唐王朝」を「漢王朝」再来幻想に浸りきっていたのでしょう。
中国大陸統一を果たせなかった劉淵を上から目線で観ていたのやも。

まさか、昔々、匈奴冒頓単于による東胡(鮮卑族の祖)滅亡伝承が
頭をよぎったとも思えませんが・・・・・?
李世民(鮮卑系)の劉淵(匈奴人)に対する単なる異議申し立て。
いつの世も、
知力・武力・財力に勝る者が持たざる者を服属させるのです。 続く。

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2020年10月17日 (土)

劉淵 漢王朝の歴史確認 741

「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
先週に引き続き、漢王朝の歴史が綴られます。
「元帝(=劉奭)(B.C.74~B.C.33在B.C.48~B.C.33)」
「成帝(=劉驁)(B.C.51~B.C.07在B.C.33~B.C.07)」は
 「僻(素直に受け取らず穿って考える)」性癖が多かったし、
「哀帝(=劉欣)(B.C.25~B.C.01在B.C.07~B.C.01)」
「平帝(=劉欣)(B.C.09~A.D.05在B.C.01~A.D.05)」は
 「祚(歳・齢)」が若かった為、「賊臣王莽 滔天簒逆」。
 この間の経緯は
 「王莽 大司馬~摂皇帝に」「王政君崩御 地球寒冷化?」で。
「世祖光武皇帝(=劉秀)(B.C.06~A.D.57 在A.D.25~A.D.57)」は
 漢王朝を復活
「顕宗孝明皇帝(=劉荘)(28~75 在位57~75)」
「肅宗孝章皇帝(=劉炟)(57~88 在位75~88)」は
 劉氏一族の「炎光」を再び輝かせた。
「和帝(=劉肇)(79~105 在位88~105)」
「安帝(=劉祜)(94~125 在位106~125)」以降は
 「皇綱漸頹(政治崩壊)」「天歩艱難(天運困窮)」
 「国統頻絶(統治悶絶)」「黄巾海沸於九州(黄巾族の全国跋扈)」
 「黄群閹毒流于四海(黄巾族・宦官の天下騒乱)」
 「董卓因之肆其猖勃」は
 「三国志 最初の悪者 董卓登場」
 「董卓 洛陽着 小帝弁探索」
 「董卓 陳留王を帝位に」
 「董卓 養子の呂布に殺害される」でご確認を。
「献帝(=劉協)(181~234 在位189~220)」は
 「204年公孫康が帯方郡設置」
 「死諸葛(孔明)走生(司馬懿)仲達」
「昭烈帝(=劉備)(161~223在位221~223)」は
 蜀(現在の四川省+重慶市)の「岷(山)」を根拠地にし漢王朝を死守
 白帝城(現在の重慶市奉節県)にて後を諸葛亮に託し崩御。
「後帝(=劉禅)(207~271在位223~263)」は
 魏軍との戦闘に蜀軍は敗北・降伏、囚われの身に。 続く。

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2020年10月10日 (土)

劉淵 劉備絶賛 漢王即位 740

「劉淵 『漢』建国声明」の原文はこちらで。
劉淵が云うには
「帝王」は常に存在するものであろうか。
「大禹(夏后)」の出自は「西戎」、「(周の)文王(姫昌)」は「東夷」。
彼らは「徳」を授かったから帝王になり得た。
今、私は10万の兵を擁す、匈奴兵の強さは晋兵の10倍。
従って、晋を滅ぼすことは可能。
最上なら「漢高(漢の高祖=劉邦)」の偉業に
最低でも「魏氏(曹操)」以上だ。
だが、「晋人」は我が匈奴人とは未だ異なる。
「漢」の時代は長かった。(B.C.206~8 25~220 221~263)計453年間
その「恩徳」は彼・彼女ら心に刻まれている。
それ故、劉備は一州(益州)の地でも「天下」取りに絡めた。
吾れ匈奴は「漢・劉一族の甥」、匈奴と漢は兄弟の契りを結んでいる。
兄が亡くなったら、弟が受け継ぐのは道理。
従って、「漢」を国号とし、「後主(劉禅)」を孝懐帝と追尊、
*劉禅・・劉備の息子(207~271在223~263) (蜀)漢の第2代皇帝
漢人にも匈奴へ人望を寄せて貰おうではないか。

これを聞き及んだ遠方の方々は、劉淵の下に数万人参集したと。
304年劉淵は都の南側郊外に祭壇を設け祭祀を行い
「漢王」に即位、宣誓。 (「僭即漢王位」については後程)
昔、我が
「太祖高皇帝(=劉邦)(B.C.256~B.C.195在B.C.202~B.C.195)」は
 「神武」を以て漢王朝を開き、
*神武・・この上もなくすぐれた武徳。(日本国語大辞典 小学館)
「太宗孝文皇帝(=劉恒)(B.C.203~B.C.157在B.C.180~B.C.157)」は
 「明德」を重んじ、漢安定に貢献、
「世宗孝武皇帝(=劉徹)(B.C.156~B.C.87在B.C.141~B.C.87)」は
 南蛮・東夷・西戎・北狄を武力制圧、領土を拡張、
「中宗孝宣皇帝(=劉詢)(B.C.91~B.C.49在B.C.74~B.C.49)」は
 各地に優秀人材を捜し求め、朝廷に任官させた。
これら我が祖先皇帝は「三王」より優れ、「五帝」の功績より高い。
*三王
 夏王朝の始祖、禹王 B.C.1900頃~B.C.1600頃
 商王朝の始祖、湯王 B.C.1600頃~B.C.1046頃
 周王朝の始祖、武王 B.C.1046頃~B.C.771(西周) (東周B.C.256)
*五帝(史記)・・中国古代の伝説上の帝王
 黄帝
 顓頊(センギョク)
 嚳(コク)
 尭(ギョウ)
 舜(シュン)
史記 巻一 五帝本紀第一
「自黄帝至舜 禹 皆同姓而異其国号 以章明德
 故黄帝為有熊 帝顓頊為高陽 帝嚳為高辛 帝堯為陶唐
 帝舜為有虞 帝禹為夏后而別氏 姓姒氏
 契為商(=殷) 姓子氏 棄為周 姓姫氏」
従って、「漢(前・後・蜀漢で通期453年)」は
「夏(約300年)・商(約550年)」の倍の年数を与えられ、
「姫氏(=周)(約275年)」よりも長かった。
と「晋書」に記載されていますので、初唐時代には「夏・商・周」時代の
明確な認識がなかった事に。 取り急ぎ「漢王朝」が№1と。 続く。

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2020年10月 3日 (土)

劉淵 「漢」建国声明 739

「王浚使将軍祁弘率鮮卑攻鄴 穎敗 挟天子南奔洛陽」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
劉淵の鄴から脱出後、時を経ず王浚軍は鮮卑兵を率い鄴を攻め、
司馬頴は敗北、惠帝を連れ南下、「洛陽」へ逃れます。
この情報を得た
劉淵は鮮卑兵を主力とする王浚軍殲滅の為、兵を動かそうとします。
しかし、劉宣らの諫言により劉淵は出兵を思い留まります。
いよいよ劉淵による「漢」建国声明です。

「元海曰 善 略 夫帝王豈有常哉
 大禹出於西戎 文王生於東夷 顧惟徳所授耳 今見衆十余万
 皆一当晋十 鼓行而摧乱晋 猶拉枯耳 上可成漢高之業
 下不失為魏氏 雖然 晋人未必同我 漢有天下世長 恩徳結于人心
 是以昭烈(劉備)崎嶇於一州之地 而能抗衡於天下 吾又漢氏之甥
 約為兄弟 兄亡弟紹 不亦可乎 且可称漢 追尊後主 以懐人望
 乃遷于左国城 遠人帰付者数万
 永興元年(304/10) 元海乃為壇於南郊 僭即漢王位
 下令曰
 昔我太祖高皇帝以神武応期 廓開大業 太宗孝文皇帝重以明徳
 升平漢道 世宗孝武皇帝拓土攘夷 地過唐日
 中宗孝宣皇帝捜揚俊乂 多士盈朝 是我祖宗道邁三王 功高五帝
 故卜年倍于夏商 卜世過於姫氏 而元成多僻 哀平短祚 賊臣王莽
 滔天簒逆 我世祖光武皇帝誕資聖武 恢復鴻基 祀漢配天
 不失旧物 俾三光晦而復明 神器幽而復顕 顕宗孝明皇帝
 肅宗孝章皇帝 累葉重暉 炎光再闡 自和安已後 皇綱漸頹
 天歩艱難 国統頻絶 黄巾海沸於九州 群閹毒流于四海
 董卓因之肆其猖勃 曹操父子凶逆相尋 故孝湣委棄万国
 昭烈播越岷蜀 冀否終有泰 旋軫旧京 何図天未悔禍 後帝窘辱
 自社稷淪喪 宗廟之不血食四十年於茲矣 今天誘其衷 悔禍皇漢
 使司馬氏父子兄弟迭相残滅 黎庶塗炭 靡所控告
 孤今猥為群公所推 紹修三祖之業 顧茲尪暗 戦惶靡厝
 但以大恥未雪 社稷無主 銜膽棲氷 勉従群議
 乃赦其境内 年号元熙 追尊劉禅為孝懷皇帝
 立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之 立其妻呼延氏為王后 置百官
 以劉宣為丞相 崔游為御史大夫 劉宏為太尉 其余拝授各有差」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)

読解は来週に。 続く。

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